柳家権太楼/塚越孝「権太楼の大落語論」

権太楼の大落語論;寄席の爆笑王による”現代落語論”

  • 聞き手・塚越孝が深く話を引き出せていて、これは面白い。浜美雪の消化不良感が解消される。
  • 「談志さんが血気盛んなときに入門してたら、はすっかいな見方の落語家になってただろう。あそこの弟子は全員、そうでした。斜にかまえて、世の中はすっかいに見てね。でーんと構えろや、ってとこが・・・ない。あの若いときの談志さんいなら、絶対に影響されちゃう、そうなるって」と、心酔した立川談志とは別の道行きでここまで来たんだという自負を滲ませつつ、「談志さんというものが大好きだった。あのころ、談志さん嫌いだっていうのは、俺の世代にはたぶんいないですよ。いたとしたら、おかしい。談志さんという人は、類例のない稀代の天才ですよ」と若き日の憧憬も隠さず。「あのころの小ゑんのほうが談志のときより、俺はいいと思う」というのも格好良い。
  • 桂枝雀についての語りが質量ともに充実。曰く、
  • 「枝雀の小米時代を知ってるでしょう。地味な感じで。あんなに弾けるとは思えないような、米朝落語をやっていました。もっというと、あれをやっていたんですよ、笑福亭の落語を。要するに松鶴の落語です。米朝師匠のところにいながら、松鶴の落語をやってたんです」(他方で塚越孝の解説は「小米時代の枝雀は当時から、弾けていた。よく、小米のころは暗く、枝雀になってガラっと変わったと言う人がいるが、そんなことはない」とのこと)
  • 「非常に神経質な稽古でした。細かい人だったですねえ。『度胸決めろや』って思うんだけど、なかなか決められなかったんですねえ。最後の最後まで『これでええのかなー?』ってずーっと、落ち着かなかったですよ。ぼくの『代書屋』なんかは、ほとんど枝雀師のです。なにしろ、俺が見てる段階では、線の細い人だったですね。要するに、『蹴られる』ことを知らなかった人なんです。『蹴られるから面白いんだよ』っていう、寄席の経験がなかった人の典型が枝雀さんですね」
  • 「枝雀さんは蹴られた経験のない純粋培養の世界だったんです。それに加えて、『枝雀寄席』っつうのしかやってない落語でしょう。『枝雀が来たー!』っていう客がブァーっと集まって、『わっ』といって『へっ』っていった瞬間に、『どかーん』と来るのが、もう『間』なんだから」
  • 「その昔、志ん朝師匠と枝雀さんの二人会があって、千葉のほうの女子大学なんですよ。全然、落語なんか見たことのなお嬢さんばっかしが来ていて、『ふ~ん』なんてやってるから、最初に枝雀さんが出ても『何?』ってな感じ。志ん朝さんが出ても『何?』って。で、昼夜だったのね、でも枝雀さん、『すんまへん、わて、帰らしてください・・・』って志ん朝師匠に言って、先に帰っっちゃたの。でも、志ん朝師匠は『いいよー』って、一人でつとめた。蹴られるの知ってるから。『しょうがねえよ、こんなものは。わかんねえんだもん』」
  • 「自分の感性でウケるとことがウケなかったんでしょ。そこで悩んだんでしょうねえ。俺はそう思うんですよ。あの方は『ここでウケる!』はずだ、と。ところが、ぽーんと蹴られた。『え、えぇー?』っていうのがあったら、怖くなっちゃったんだね。そして今度は、高座に出られなくなっちゃった」
  • 「でも、寄席があればチャンスが何回もあるんですよ。今日がだめでも、また明日の客でなんとかなるかもしれない。『この寄席がだめなら、こっちの寄席で・・・』ってのがある。やってみて、『新宿がだめだったら、池袋へ行ってやらあ。ああ、池袋じゃウケるわ』っていうのが、前座のころから東京の落語家はみんな体験してるんです」
  • 米朝師匠は、色紙に『一期一会』しか書かないわけでしょ。『そこで巡りあったときだけが、一生に一回の縁。それでいいんですよ』と。そんときにいいのがきけりゃあ、運が良かった。もっと言えば、セコイのを聴いたときだって、もしその人をずーっと聴いてたら逆に『運がよかった』になるかもしれない、『昔、セコイのを見たんだよ』ってね、目白なんかは、典型的にそれを言ってますね。『いいんだよ、あんなものは・・・悪いときもあるんだよ。それが当たりめえなんだ』ってね」
  • 「枝雀さんの悲惨さは悪いものが見せられなかったこと。常に客の期待に100%応えられないと『枝雀落語』は完成できなかった。辛いですねえ。それでもっって、毎週、『枝雀寄席』をやりましたよね。きょう、ここにいる人たちに、『ごめん』て言えない状況をつくったんです」
  • 高校生にして、柳亭痴楽を紹介してやると母親に言われて、「俺はいやだよ。俺は芸協の落語がしたいわけじゃないんだ。柳家の落語がやりたいんだよ。だからそれは断る」と断り、友達から「俺のおじさん、柳昇っつうんだけど、おまえなら紹介してやるよ」と言われても、「秋本くん、悪いけど、俺は違うんだよ。違う派に行きたいんだ」と断る剛毅さ。
  • 6代目柳家小さんが不思議な存在だなとかねがね思っていたのですが、名跡についての話もとても興味深い。曰く、
  • 「『誠に申し訳ありません。文楽の看板に泥を塗りました。まさかこんな内容の番組になって放送されるとは思わなかったんです』と。『すみません。もう自信がないから名前を返したい』って言ったときに、小さんが『バカヤロー!』って、『俺が小さんになるときは、もっとひどかったんだ。てめえの文楽をつくりゃあ、いいんだ。九代目はおまえなんだ。俺が認めてんだ!』って言って、逆に嬉し涙で帰るんですよ」
  • 「小さん師匠はいったい誰にそれを言われたかっていうと、実は文楽師匠に言われたんです。文楽師匠が小三治を小さんにするかどうかで迷ったときに、文楽師匠の師匠である左楽師匠のとこへ言って、『実は小三治を・・・』、そのときは正蔵がいるんですよ。要するに稲荷町正蔵。(まだそのときは正蔵に)なってないです。だから大変な揉め方。でも自分は、小三治を小さんに、可愛くて可愛くてね。迷ったの文楽師匠が、それで左楽師匠のところへ行くんです。自分の師匠のところに。そしたら、左楽師匠が言ったのがおんなじ言葉なんです。『おまえを文楽にするのに、俺がどのぐらいの批判を受けたと思ってるんだ。そのつもりで、もっとおまえが腹を括れ!』って言われた」
  • 「八代目の文楽を想像してやったらいけないんだ。いまの文楽という落語家の形、『六尺棒』であったり、『看板のピン』であったりという噺をさーっとやるというのが、いい。要するにホームランを打つ文楽ではなく、ヒットエンドランをやれる文楽ですよ」
  • 「だから俺は、そういう意味で三語楼さんの小さんというのも、何もホームランバッターの人間国宝を目指すのではなく、あの人にはああいう運命的なところがあるんだから、それはそれでやったほうがいいんだ、と思います。六代目の「小さん」の誕生を観に来ればいい」「名人にならなきゃいけない小さんを観に行こうというのではなく、六代目の小さんを観に来て欲しい」
  • 「この明晰の問題については、いずれきっちりやりたいと思っているのが、『協会に戻す』ということです」
  • 「いま、ほんとにおかしくなってますんで・・・。特にある一門が出てきて、いろんなことを言ってやられてると、そこだけで商売してるんならばそれでいいけれども、他の者までそういう権利を主張しだしたら、おかしくなるんで・・・」というのは海老名家のことでしょうか。
  • 古今亭志ん生名跡については「長女の美津子さんが、『あたしの目の黒いうちは駄目』とはっきり言っています」とのこと。
  • 落語家という稼業について、「食っていけるんです。いや、落語だけで食っていけるからいけないんだ」「食えなくて噺家やめるやつ、誰もいないんですよ」とは実に意外。桂米朝「末路哀れは覚悟の前やで」とは隔世の感。
  • 柳家権太楼クラスでも寄席の割は一日三千円かよくて四千円ぐらいというのも凄いですが、「『割り』で生活ができるほどの給金がもらえるようであれば修行にはならないということです。俺らのプライドは寄席に出ることなんですよ。むしろお金なんかもらわなくてもいいくらいなんです」というのも更に凄い。
  • 柳家権太楼がはまってた暉峻康隆「落語芸談」も面白そうなので借りてみよう(「暉峻先生という文学者との対話でやってるから、みなさん真面目に話していますよね」)。