村上春樹 「さよなら、愛しい人」

さよなら、愛しい人

  • 清水俊二による「さらば愛しき女よ」というエスタブリッシュされた日本語タイトルとどう差別化を図るのかと思いきや、まさか「さよなら、愛しい人」とは。ムース・マロイからヴェルマ・ヴァレントへの言葉であると同時に、ヴェルマ・ヴァレントからグレイル氏への言葉にもなっている点を踏まえて敢えてフラットに訳したのだと思われますが、「lovely」という名詞は一般には女性を指すようなので、清水俊二の名訳「さらば愛しき女よ」が間違っている訳でもないのでしょう。
  • 魅力的な男性キャラクターとの遭遇、過去を隠して富豪と結婚した美女などの類似点が多いが故に、却って「長いお別れ」の素晴らしさが際立ちます。オフィスでレンブラントのカレンダーを眺めていたところに一見無関係なリンゼイ・マリオットからの依頼が舞い込む第7章など、これぞチャンドラーという感じで思わず頬が緩みますが、ヴェルマ=グレイル夫人というのが透けて見えてしまうのもいかにもチャンドラーという感じ。
  • 更に「らしい」のは細かい筋立てのわかりにくさ。リンゼイ・マリオットと一緒にマーロウも殺さなかった事情、アン・リオーダンがリンゼイ・マリオットの殺害現場に居た理由、2件の殺人事件とは直接関係しない詐欺師ジュールズ・アムサーと悪徳医師ソンダボーグのストーリーへの絡み方、レアード・ブルーネットとマロイの関係、マロイがフロリアンを殺してしまう現実性等々、ふつふつと思い返してみるに納得のいかない点ばかり。
  • 未読なので何とも言えませんが、「トライ・ザ・ガール」、「翡翠」、「犬が好きだった男」という既発表の3つの短編を縫合したが故の建て付けの悪さなのかもしれません(「あちこちに細かいほころびのようなものが見受けられる」)。いずれにしても読んでいる間は華麗なる文体とワイズクラックに痺れているので気にならないのですが。
  • 「不朽の名作」と言えるほど出来は良くないのではないかという疑念を、今回読み直して禁じ得ませんでした。