Various Artists 「The Best of Dixieland Jazz(Disc 3)」

  • Original Memphis Five「Meanest Blues」(1924)
    • ミフ・モールは参加していない(何故?)。
  • Original Memphis Five「Static Strut」(1926)
    • 「シュガー」の作詞家ジャック・イェレンが作曲家フィル・ウォールと作った曲。
  • Red and Miff's Stompers「Feeling No Pain」(1927)
  • Red Nicholas and His Orchestra「Five Pennies」(1928)
    • ファイヴ・ペニーズをヒズ・オーケストラ名義で録音。曲が先なのかバンドが先なのか。
  • Red and His Big Ten「At Last I'm Happy」(1931)
    • 作詞/作曲がスミス/ジョンソンとクレジットされてますが、シドニー・クレア/クリフ・フレンド/コン・コンラッドが正しいようです。
  • Joe Venuti's Blue Four「The Wild Dog」(1931)
    • ヴェヌーティとエディ・ラングにフランク・シニョレリ(ピアノ)とピート・プミグリオ(サックス)が加わったブルー・フォー名義。
  • Jack Pettis and His Pets「Bugle Call Blues」(1929)
    • 「ビューグル・コール・ラグ」の名称で後にグッドマン楽団とミラー楽団の双方が演奏した他、デューク・エリントンも取り上げた。
  • Boyd Senter and His Senterpedes「Copenhagen」(1929)
    • 至高のジャズオロジスト。
    • 中西部で活躍したバンドリーダーのチャーリー・デイヴィスが楽団員が噛んでいた噛みタバコの銘柄にインスパイアされてに作った曲。コペンハーゲン・ストンプと呼ばれることもある。
    • 言い伝えによればウォルヴァリンズ一行がデイヴィス楽団のショーを見た後彼らを訪ね、デイヴィスはウォルヴァリンズに録音を許可。ウォルヴァリンズ(ビックス・バイダーベック在籍時)は1924年にこの曲を録音。以後多くのミュージシャンが取り上げた。
  • Monk Hazel and His Bienvill Roof Orchestra「High Society」(1928)
    • メロフォニウム、ドラム、コルネット等多くの楽器を演奏できたバンド・リーダー、モンク・ヘイゼルの楽団。4曲行ったニューオリンズ出張録音には、シャーキー・ボナノ(トランペット)とシドニー・アロディン(クラリネット)が参加している。
    • 1956年にはニューオリンズのジャズクラブ「パリジャン・ルーム」でヘイゼルのためのベネフィット・ショーが行われた。
    • 1925年、ニューオリンズでノーマン・ブラウンリーのバンドで初録音。その後自身のバンドを結成、ニューヨークでジミー・デュランテのバンドに加入、1927年にはジーン・ゴールドケット楽団に加入、ニューオリンズに戻りレオン・プリマと活動、ロサンゼルスに移りラリー・シールズと活動、1930年にニューオリンズに戻り、1936年にはベン・ポラック楽団で活動、ポラック楽団を去り、自身のバンドで3年間ニューヨークのクラブで活動。
    • 第2次世界大戦後はヨーロッパ、南米、アジアをツアーするとともにシカゴやニューヨークで活動した後、フレンチ・クォーターでレギュラー演奏。1972年死去。
    • ニューヨークでボナノの演奏を耳にしたトスカニーニが彼を雇い、ニューヨーク・フィルに彼の無伴奏演奏を聴かせ、ボナノのようなトーンを出せないトランペット・セクションを叱責したという伝説が残っている。
    • アロディンはホーギー・カーマイケルと共に「レイジー・リヴァー」を作曲したことで記憶されている。この曲はアロディンがいつもショーの前に行うウォームアップで使用したコード進行に基づいて作られた。アロディンは多くの録音に参加したがこの曲は録音していない。
  • Jones and Collins Astoria Hot Eight「Astoria Strut」(1929)
    • ジョーンズ・コリンズ・アストリア・ボールルーム・オーケストラのメンバーを中心に、レコーディングのためにメンバーを集めたが、クラリネットエドモンド・ホールが脱退直後だったため、シドニー・アロディンが参加(人種混成録音)。
    • 1923年にシカゴに移り、デッペズ・セレネーダーズ、アースキン・テイトのヴェンドーム・オーケストラ、キャロル・ディッカーソンらと活動する。1926年にルイ・アームストロングと知り合い、友人となる。短期間ルイ・アームストロングのストンパーズで活動した他、アームストロング、ズッティ・シングルトンと共にシカゴでクラブを経営したが成功しなかった。
    • 1928年には、初めてのピアノ・ソロを録音。この年はジミー・ヌーンのエイペックス・クラブ・オーケストラで多くの活動を行った他、アームストロングのホット・ファイヴ、ホット・セヴンの録音セッションにも参加、誕生日には自身のビッグバンドを結成し1948年まで率いた。
    • 1951年にはカリフォルニアに移り、ディキシーランドリバイバルに乗じて自身のバンドを結成して活動。1960年代初め頃には忘れ去られた存在となっていたが、1964年のニューヨークでの一連のコンサートでカムバック。1983年、オークランドにて死去。
  • Jelly Roll Moton Trio「Turtle Twist」(1929)
    • 1927年にはチャールズ・エルガー楽団、ルイス・ラッセル楽団で活動した後、デューク・エリントン楽団に加入。ビガードとエリントンの共作「ムード・インディゴ」といったクラシックを残すなど1942年まで活躍。
    • 1942年に退団し、フレディー・スラックのビッグ・バンドやキッド・オリーのクレオール・オーケストラで活動。1946年の映画「ニューオリンズ」にも映っている。1947年、ルイ・アームストロング・オールスターズに加入、1955年に退団するまで世界中をツアーする。1958年から1959年にはコージー・コールのビッグ・バンドで活動。1960年から1961年にはオールスターズに復帰。
    • 1962年にセミ・リタイアするが、ロサンゼルスのディズニーランドで「ヤング・メン・フロム・ニューオリンズ」と呼ばれたジョニー・センシアのバンド等で時折演奏した。1980年死去。
    • ズッティ・シングルトンは初期ジャズのドラムにおいてブラシの使用とドラム・ソロを広めたドラム奏者。1915年スティーヴ・ルイスとともにニューオリンズローズバド劇場でキャリアを開始。第1次世界大戦では海軍兵としてヨーロッパ戦線に参加し負傷。戦後、ニューオリンズにおいてパパ・セレスティン、ルイス・ラッセル、フェイト・マラブルらの楽団で活動。
    • 1929年にはアームストロングとともにニューヨークに移り、ファッツ・ウォーラー、トミー・ラドニアらとも活動。大恐慌期にはヴォードヴィルで糊口を凌ぐ。1934年にはシカゴに戻り、キャロル・ディッカーソンと活動。その後はロイ・エルドリッジ、メズ・メズロウ、シドニー・ベシェらと活動。1940年代前半にロサンゼルスに移り、自身のバンドを結成し、モーション・ピクチャーの仕事やオーソン・ウェルズのラジオ・ショー等で活動。1970年脳卒中により引退。1975年ニューヨークにて死去。
  • New Orleans Feetwarmers「Maple Leaf Rag」(1932)
  • New Orleans Wanderers「Perdido Street Blues」(1926)
    • 発売されたレコードにはルイの名前だけが印刷されており、あたかもルイが演奏を行っているかのような装いだったため、ルイは激怒してリルを叩き、彼女は全て知っていたと非難した。録音された残りの4曲はニューオリンズ・ブートブラックス名義で発売された。
    • 1919年、シカゴに移りニューオリンズから移ってきたミュージシャンと演奏。1923年から1924年はキャロル・ディッカーソン楽団で活動した。後に、ミッチェルはドク・クック楽団でフレディ・ケッパードの代役を務める。
    • その後、ジョニー・ドッズ・ブラック・ボトム・ストンパーズ、アール・ハインズ・オーケストラ、ルイス・ラッセルズ・ホット・シックス、ジミー・ヌーン、リチャード・M.ジョーンズと録音を残す。
    • 大恐慌を受け、ミッチェルはフルタイムでの音楽活動を離れて銀行のメッセンジャーとなり、単発での演奏活動を行う。知られている最後の演奏は1934年のフレディー・ウィリアムズ・ゴールド・コースト・オーケストラでの演奏である。1972年、シカゴにて死去。
    • リルは「パーディド・ストリート・ブルース」を一人で書き上げたと主張した。
  • Original Dixieland Jazz Band「Clarinet Marmalade」(1918)
    • 史上初めてのジャズのレコードを録音したオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド。最初のメンバーは全員ジャック“パパ”レインのリライアンス・ブラス・バンドに所属していた。
    • 1916年、アルサイド“イエロー”ヌニェス(クラリネット)とジョニー・スタイン(ドラム)にシカゴのプロモーターからオファーがあり、エディ・エドワーズ(トロンボーン)、ヘンリー・ラガス(ピアノ)、フランク・クリスチャン(コルネット)を集める。出発直前にクリスチャンが脱退したためニック・ラロッカコルネット)が加入し、シカゴに移る。
    • 当初演奏する予定だったブースター・クラブが到着直前に閉鎖されたため、スタインズ・ディキシー・ジャス・バンドの名義でラムズ・カフェで演奏を行う。人気が出てより良い契約をオファーされると、メンバーは契約で動けないスタインを見捨てて代役にトニー・スバーバロを迎え、6月からザ・ディキシー・ジャス・バンドとして活動。10月にはラロッカとヌニェスが対立し、トム・ブラウン楽団とコルネット奏者を交換、ラリー・シールズが加入。
    • 1917年始めにはニューヨークに移り、ライゼンウェバーズ・カフェで演奏。間もなく、ヴィクターで「ライヴリー・ステイブル・ブルース」「ディキシー・ジャス・バンド・ワン・ステップ」を録音、1917年2月に発売されたレコードは、史上初めてのジャズのレコードとして発売後1年で100万枚を売り上げる大ヒット。
    • ヌニェスは「ライヴリー・ステイブル・ブルース」の著作権が設定されていないことを知り、レイ・ロペスとともに著作権を登録して出版。ラロッカは1万ドルを求めて告訴するとともに同曲を「バーンヤード・ブルース」として著作権登録。訴訟では双方が派手な証言を行い大きなニュースとなる。ラロッカ自らを称して曰く「ジャズのコロンブス、最新のダンスのニュートン」。ヌニェス曰く「判事、ブルースはブルースです!」。結局著作権はどちらのものでもないこととされた。因みにB面の「ディキシー・ジャズ・バンド・ワン・ステップ」もジョージョーダンの「ザット・ティージン・ラグ」の盗作であるとして法廷で争われた。
    • 1918年、エドワーズが徴兵されたため(1920年に英国ツアーを拒んで脱退説あり)、代役にエミール・クリスチャンが加入。1919年、スペイン風邪によりラガスが死去したため、J.ラッセル・ロビンソンが加入。
    • 1920年7月には英国で公演、20曲以上を録音して帰国。ポール・ホワイトマン楽団やニューオリンズ・リズム・キングスがジャズ・シーンを席巻し始めた他、1922年にはアフロ・アメリカンの録音が始まり、形勢が悪化、1925年、ラロッカの神経衰弱によりバンドは解散。
    • 1936年に一時再結成し録音を行った後、ラロッカは音楽界から引退し、不動産業者(建設業者)になる。1940年にはラロッカ抜きで再結成。1945年から1946年にかけてエディ・エドワーズがVディスクの録音用に再結成するが、オリジナル・メンバーはスバーバロのみ。
    • ラロッカは終生自分がジャズを発明したと主張し続け、ジャズの誕生においてアフロ・アメリカンが果たした役割を死ぬまで認めなかった。
  • Jimmie Noone's Apex Club Orchestra「Apex Blues」(1928)
    • バディ・プティ(コルネット)、オノレ・デュトレー(トロンボーン)とともに1916年、バンドを結成。1年後にはキッド・オリー、オスカー“パパ”セレスティンと活動。1917年にシカゴに移り、最初ケッパーズ・オリジナル・クレオール・オーケストラに入るが、直ぐにキング・オリバー楽団に加入。
    • その後、トミー・ラドニアとクックズ・ドリームランド・オーケストラで演奏する。このオーケストラには6年間在籍し、この期間にフランツ・シェップからクラリネットを学んだ。1923年のキング・オリバーの録音に参加。1926年秋よりエイペックス・クラブでの演奏を開始。
    • 1931年と1935年に短期間ニューヨークでゲスト出演した以外は1930年代を通じたシカゴで活動した。1944年、ロサンゼルスにて心臓発作により死去。
  • Loui Armstrong's Hot Five「Ory's Creole Trombone」(1927)
    • オリジナルは当然キッド・オリー。
  • Johnny Dodd's Black Bottom Stompers「New Orleans Stomp」(1927)
  • King Oliver's Creole Jazz Band「Sweet Lovin' Man」(1923)
    • 追加。
    • オリバーは片眼が盲目であったため、ダービーハットを深くかぶって片眼を隠し、椅子に座ったり壁に寄り掛かった姿勢で演奏した。
    • 「キング」の名付け親はキッド・オリー。
    • 歯茎を悪くしたのは甘い物好きのため。砂糖サンドウィッチ好きで有名だった。歯茎の病気の他、背中も痛めていた。
    • 1919年にシカゴに移ってから、1922年にクレオール・ジャズ・バンドを結成するまでの間は、ビル・ジョンソンのオリジナル・クレオール・オーケストラで活動していた。
    • 1925年にデイヴ・ペイトンのバンドを引き継ぎ、ディキシー・シンコペイターズと命名。1925年から1927年までプランテーション・カフェで演奏するとともにヴォカリオンとブランズウィックで録音。
    • 1927年、プランテーション・カフェが焼失後、ツアーに出るが、プロモーターに金を騙し取られる。同年、コットン・クラブとの契約で痛恨の判断ミス。
    • 1929年に解散したディキシー・シンコペイターズはルイス・ラッセルが引き継いだ。同年、ヴィクターと録音の契約し1931年まで録音。結果的にはこれが最後の録音。この頃には既に歯茎の状態が相当悪化しており、録音した多くの曲でオリバーは演奏せず、代役トランペッターに演奏させている。また、オリバーの甥デイヴ・ネルソンが多くの曲を共作、アレンジメントも行った。
    • この曲もウォルター・メルローズが作曲でクレジットされていますが、実質的にはリル・ハーディン作曲。
  • New Orleans Rhythm Kings (Friar's Society Orchestra)「Tiger Rag」(1922)
    • 1920年、リヴァーボートで演奏していたポール・メアーズ(トランペット)とジョージ・ブルーニス(トロンボーン)がアイオワ州ダヴェンポートで停船した際に、レオン・ラッポロ(クラリネット)とチームを組んだ。その後、エルマー・ショーベル(ピアノ)、フランク・スナイダー(ドラム)、アルフレッド・ロヤカノ(ベース)、ルイス・ブラック(バンジョー)が加わった。
    • 1922年、シカゴのフライアーズ・インでの仕事を得たため、初期においてはザ・フライアーズ・ソサエティ・オーケストラ名義で活動した。1923年にクラブでの仕事を失うとニューオリンズ・リズム・キングスに改名。
    • 1922年、1923年にジェネットに一連の録音を残す。
    • 短い活動期間の間にメンバー交代、拡大を頻繁に行う中、エルマー・ショーベル(ピアノ)、ベン・ポラック(ドラム)が加わった。
    • シカゴで最も尊敬されたバンドの一つだったが、ニューオリンズ・スタイルの演奏が好まれなくなり、ポール・ホワイトマンのようなアレンジされた演奏が望まれるようになると、レギュラー活動を行う店を見つけることが出来ず解散。
    • ブルーニスはテッド・ルイス楽団に加入し、1934年まで在籍。
    • メアーズとラッポロは一緒にニューヨークに出てアル・シーゲルと活動した後、ニューオリンズに戻ってバンドを再編成。1925年始めに7曲を録音。メアーズは家業の毛皮商を継いだ。ラッポロは深刻な神経衰弱に陥り、その後を精神病院で過ごした。
    • 1934年、1935年などに何度か再結成されている。
    • フライアーズ・ソサエティ・オーケストラ名義。この録音にはジャック・ペティスも参加している。