Various Artists 「The Best of Dixieland Jazz(Disc 2)」

  • Phil Baxter and His Orchestra「Ain't Got No Gal Now」(1929)
    • テキサス出身のピアニスト兼シンガー。1920年代中盤よりカンザスシティを中心に活動。1925年セントルイス、1929年ダラスの2回録音を行った。
    • 1927年、カンザスシティにオープンしたエル・トレオン・ボールルームのハウスバンドを1933年まで勤めた。1930年代中盤から関節を悪くして活動を縮小。
  • Bennett's Swamplanders 「Big Ben」(1930)
    • 元々はピアノのJ.C.ジョンソンがリーダーのファイブ・ホット・チョコレートだった。
    • トランペットのウォルター(ジャック)・ベネットが加入して、バンド名もベネット、曲名もベネット。
  • Original Memphis Five「Who's Sorry Now」(1924)
    • 1917年、コニーアイランドで共演した後にフィル・ナポレオン(トランペット)とフランク・シニョレリ(ピアノ)が結成。ミフ・モールのトロンボーンをフィーチャーし、最も成功した白人バンドの1つ。
    • 基本メンバーはフィル・ナポレオン(トランペット)、フランク・シニョレリ(ピアノ)、ミフ・モール(トロンボーン)、ジミー・ライテル(クラリネット)、ジャック・ロス(ドラム)。メンバーにはメンフィスどころか南部出身者さえ居なかった(バンド名の由来はW.C.ハンディの曲「メンフィス・ブルース」)。
    • オリジナル・メンフィス・ファイブ以外にも「ラッズ・ブラック・エイシーズ」「ジャズボズ・キャロライナ・セレネイダーズ」「ベイリーズ・ラッキー・セヴン」「ザ・サウスランド・シックス」「キャロライナ・コットン・ピッカーズ」等の多くの変名で多数のレコードをリリース。
    • ラインナップは流動的で、レッド・ニコルス、トミー・ドーシー、ジミー・ドーシー、レイ・ボデュークも時々このバンドで演奏した。
  • George Olsen and His Music「A New Kind of Man」(1924)
    • オルセンは1924年にはジーグフェルドのブロードウェイ・ミュージカル「キッド・ブーツ」に出演。因みに映画化された「キッド・ブーツ」の邦題は「猿飛カンター」。
    • 1934年「サンタが町にやってくる」のヒットで知られるオルセンですが、レッド・ニコルスを見初めてニューヨークに連れて来たという歴史的な役割も果たしていたと言えなくもない(真贋定かならず)。
  • Red and Miff's Stompers「Delirium」(1927)
    • レッド・ニコルズは1905年ユタ州オグデン生まれの白人コルネット奏者。幼少期をサンノゼで過ごし、音楽教師の父のファミリー・バンドで演奏を学んだ。
    • 既にオリジナル・メンフィス・ファイブで名を成していたミフ・モールと知り合い、即座に意気投合。カリフォルニア・ランブラーズで一緒に演奏を行い、以後数多くの録音を共に行った。
    • ニコルズは間もなくニューヨーク・ジャズ・シーンで名を成し、自身のバンドを結成。1926年に「レッド・ニコルズ&ヒズ・ファイヴ・ペニーズ」名義で録音を行ったのを皮切りに、「アーカンサス・トラヴェラーズ」「ルイジアナ・リズム・キングス」「チャールストン・チェイサーズ」「シックス・ホッテントッツ」「アラバマ・レッド・ペッパーズ」「レッド&ヒズ・ビッグ・テン」「レッド・ニコルズ&ヒズ・オーケストラ」「レッド・ニコルズ・ストンパーズ」等様々な名義で大量の録音を吹き込む。
    • 1930年代には、大規模なダンス・オーケストラと小規模なコンボの双方を率いて活動。ボブ・ホープ等のラジオ・ショーでも多くのスタジオ・オーケストラを率いた。
    • 1942年から1944年の間、音楽界から引退していたが、グレン・グレイのカサ・ロマ・オーケストラで復活。直後に「ファイヴ・ペニーズ」を再結成し、以後約20年間ツアーを行う(日本にも来た)。
    • 1959年、ニコルズをモデルとしたハリウッド映画「5つの銅貨」がダニー・ケイ主演で製作されるが事実とは大幅に異なっている(演奏はニコルズ本人によるもの)。
    • ジャズとの関わりはガス・シャープ楽団に始まり、その後バンド・リーダー/コメディアンのジミー・デュランテと活動する。
    • その後オリジナル・メンフィス・ファイヴに加入。
    • 1923年、レッド・ニコルズと知り合い、ニコルズ率いるバンドやミフ・モール&ヒズ・リトルモーラーズ名義で数多くの録音を行う。
    • 1927年からスタジオ・ミュージシャンとして活動、1930年代は小規模編成のジャズを演奏した。
    • 1938年から1940年にはポール・ホワイトマン楽団で、1943年にはベニー・グッドマン楽団で演奏したが、1940年代中頃には小規模編成に戻り、マンハッタンの「ニックス」のレギュラーを務め、ミフ・モール&ヒズ・ニキシーランド・バンド名義で録音を行った。
    • 1950年代に体調が悪化。1961年に死亡した頃には既に忘れられた存在であり、集団墓地に埋められた。
  • Red Nichols' Stompers「Sugar」(1927)
    • レッド・ニコルズ・ストンパーズ名義。1920年代に多くの曲を書いた作曲家ミルトン・エイガーと作詞家ジャック・イェレンのコンビによる曲。
  • Phil Napoleon and His Orchestra「Clarinet Marmalade」(1927)
    • フィル・ナポレオンはボストン生まれの白人トランペット奏者。スタッカート奏法が一般的だったニューヨークにおいてレガート奏法で革新をもたらした。
    • 1917年、フランク・シニョレリとともにオリジナル・メンフィス・ファイヴを結成し大成功。
    • 1927年には自身の楽団を結成するが直ぐに解散。
    • 1931年にオリジナル・メンフィス・ファイヴが解散した後、ナポレオンはスタジオ・ミュージシャンとして活動。1937年に一時的に自身の楽団を結成し録音を行うが、直ぐに解散し、またスタジオ・ミュージシャンに。
    • 1943年にジミー・ドーシーからの誘いにより、ロサンゼルスに移り、トミー・ドーシー楽団に加入。映画「フォー・ジルズ・アンド・ア・ジープ」で彼を見ることが出来る。1947年まで在籍した後、ニューヨークに戻り、NBCラジオのスタジオ・ミュージシャンとして活動。
    • 1950年にオリジナル・メンフィス・ファイヴを再結成し、マンハッタンの「ニックス」で6年間演奏。
    • 1956年、マイアミに移り、クラブ「ナポレオンズ・リトリート」をオープン。バンドの演奏も続けた。1990年、マイアミの自宅で死去。
    • オリジナル・メンフィス・ファイブの変名の1つと扱われることもあるようですが、この曲はパーソネルが大幅に違うので、1927年結成の短命の楽団だと思われます。
  • Roger Wolfe Kahn and His Orchestra「Just the Same」(1927)
    • ロジャー・ウルフ・カーンは銀行家オットー・カーンの息子としてニュー・ジャージーに生まれ、18の楽器を習う。
    • 1923年、カーン16歳の時、アーサー・ラング・オーケストラを買収し、自らのオーケストラに。
    • ジョー・ヴェヌーティ、エディ・ラング、アーティー・ショウ、ジャック・ティーガーデン、レッド・ニコルズ、ジーン・クルーパ等の有名なミュージシャンを特に録音において用いた。
    • 楽団が特に良い演奏をした時には、フロアに身を投げ出し、足を上げて振ったと言われている。
    • 1931年、ミュージカルのコメディ女優ハンナ・ウィリアムズと結婚。ロングアイランドの別荘オヘカ城(現在はホテルになっている)で行われたが、ブロードウェイでウィリアムズが出演していた「スウィート・アンド・ロー」の最終公演が終わるまで2週間の間秘密にしていた。
    • 1930年代中頃には興味を失くして楽団を解散。
    • 変わりに興味を持ったのが飛行機。1941年にはグルマン社のテスト・パイロットになる。
    • 1962年、ニューヨークにて心臓発作により死亡。
    • 作曲家ジェローム・カーン(Kern)とは(金持ちの息子が音楽の道に進んだのは同じですが)無関係。
  • Paul Whiteman and His Orchestra「I'm Coming, Virginia」(1927)
    • ポール・ホワイトマンデンヴァー出身)は1920年代最も人気のあった自称「キング・オブ・ジャズ」。しかしながら、多くの偉大な白人ジャズ・ミュージシャンが在籍していたにも関わらず、即興が排されているため、今日の観点からは殆どジャズとは認められていない。
    • ただし、エリントンは自伝において「ポール・ホワイトマンはキング・オブ・ジャズとして知られたが、今のところ誰も彼以上の必然性と威厳をもってその称号を得るに至っていない」と書いている。
    • 第1次世界大戦の際には海軍のために楽団を率い、戦後、楽団を結成し、サンフランシスコのフェアモント・ホテルで演奏した。
    • 1920年、ニューヨークに移り、最初に録音した「ウィスパリング/ジャパニーズ・サンドマン」が200万枚の大ヒット。
    • レッド・ニコルズ、トミー・ドーシー、フランキー・トランバウアー、ジョー・ヴェヌーティ、エディ・ラングといった1920年代の著名なミュージシャンを次々に雇った。1927年にはビックス・バイダーベックも雇ったが、1929年神経衰弱により脱退。高給を支払うためミュージシャンには好かれていた。
    • 自身の楽団以外にスモール・コンボでの即興演奏の録音を行うようミュージシャン達を支援したという話もあるようです。
    • 1930年、映画「キング・オブ・ジャズ」主演。1930年代に徐々に人気は下降。1940年代、50年代にはABCの音楽ディレクターを努めた。1967年死亡。
    • 「アイム・カミング・ヴァージニア」と「バック・ホーム・アゲイン・イン・インディアナ」がいつもゴッチャになります。
  • Charles Dornberger and His Orchestra「Tiger Rag」(1927)
    • 1898年ニューヨーク生まれのサックス奏者。ピアノ等の他の楽器もいくつか出来た。
    • 1923年には自己の楽団で初録音。1930年までヴィクターで録音を行った。
    • 1944年ネヴァダ州レノにて操縦中の飛行機事故で死んだ。
  • Joe Venuti - Eddie Lang「Doin' Things」(1928)
    • イタリア誕生説、フィラデルフィア誕生説、船上誕生説の諸説あり。幼少期よりクラシック・ヴァイオリンの教育を受けた。
    • 1913年、フィラデルフィアの学校でエディ・ラングに出会い、3年後には彼とローカル・グループを開始。2人の関係は1933年にラングが死去するまで続いた。
    • ジーン・ゴールドケットとツアーを行い、多くのブロードウェイ・ショーのオーケストラで演奏した。
    • 1920年代を通じて活動したエディ・ラングとの双頭バンドにはジミー・ドーシー、レッド・ニコルズ、フランク・シニョレリらが参加した。
    • 1929年にはポール・ホワイトマン楽団に加入したが、自動車事故に遭い一時脱退、1930年に再加入。
    • 1934年には英国でのギグを成功させる。
    • 1940年代、50年代は不遇であったが、1960年代後半に再発見され、1970年代前半にかけてズート・シムズとの録音を行った。1978年シアトルにて死去。
    • エディ・ラングはジャズ・ギターのパイオニア。11年間ヴァイオリンのレッスンを受けた。
    • 1921年から22年はバート・エストロー・カルテットにヴェヌーティと共にヴァイオリン奏者として参加、その後チャーリー・カー楽団ではバンジョーを演奏。1924年にマウンド・シティ・ブルー・ブロワーズに加入した頃からギターに転向。
    • 伴奏・ソロともに優れる多芸なラングは直ぐにジャズのみならずポップスやブルースのレコーディングに引っ張りだこになる。
    • ラングはヴェヌーティやレッド・ニコルズ、フランキー・トランバウアー、ビックス・バイダーベックと活動した他、ロジャー・ウルフ・カーン楽団やジーン・ゴールドケット楽団、ポール・ホワイトマン楽団等多くの楽団で活動した。
    • ポール・ホワイトマンの映画「キング・オブ・ジャズ」でヴェヌーティと共演する姿が見られる。
    • オーケー・レコードのハウス・ギタリストを務めた。
    • 1927年から1929年の間にはキング・オリバーとの録音や、ブラインド・ウィリー・ダン&ヒズ・ジン・ボトル・フォーの偽名でのロニー・ジョンソンとの録音などの興味深いセッションを行った。
    • ビング・クロスビーがホワイトマン楽団から独立した1930年代初頭にはクロスビーの伴奏を行った。映画「ラヂオは笑ふ」で2人を見ることができる。
    • 扁桃摘出手術の失敗により出血多量で死去。ラングに手術を受けるよう強く進めたクロスビーは激しく取り乱した。
  • Jack Pettis and His Pets「Freshman Hop」(1928)
    • 消息不明のジャック・ペティス。ペッツ名義の録音。
  • Napoleon's Emperors「You Can't Cheat a Cheater」(1929)
    • フィル・ナポレオンのエンペラーズ名義。
    • エンペラーズはオリジナル・メンフィス・ファイブの拡大バージョン。バイオリンにジョー・ヴェヌーティ、チューバにジョー・タルトをフィーチャー。
    • このセッションではフィルの兄弟であるテッド・ナポレオンがドラムにクレジットされているが、スタン・キングではないかとの疑惑あり。
  • Boyd Senter and His Senterpedes「Sweetheart Blues」(1929)
    • ボイド・センター、1898年ネブラスカ生まれ。「至高のジャズオロジスト」と称された。
    • ミュージシャンを志し、ピアノの基礎のレッスンを受ける。トランペット、全てのサックス、様々な金管楽器バンジョーまでマスターしたが、クラリネットにおいて有名になった。
    • オーケーでの録音はヨーロッパ中で販売され、「モバイル・ブルース」などは米国マーケット向けとしては却下されたが、英国では販売された。
    • 1928年自身の録音バンドとしてセンターピーズを結成。
    • 1965年頃には鋸の刃や砥石、ドリル、釣具等を得る店をミシガンで開いていた。1982年死去。
  • Jelly Roll Morton's Red Hot Peppers「Dr.Jazz」(1926)
    • 10代よりストーリーヴィルの売春宿でピアノを演奏、トニー・ジャクソンとともに尊敬を集めた。ラグタイムからジャズ・ピアノへの重要な移行モデル。
    • 1904年から1917年の間、各地を放浪、ピアニストの他、ギャンブラー、ハスラー、ポン引き、ヴォードヴィル・コメディアンとして稼いだ。バンク・ジョンソンとも活動した。
    • 1917年から1922年の間は西海岸で活動し、その後シカゴに移り、1923年、1924年に録音を行い人気を博す。その後、自身のバンド、レッド・ホット・ペッパーズを結成し、ヴィクターにクラシックとなる一連の録音を残す。
    • シカゴでの録音ではニューオリンズ最良のサイドメン達(キッド・オリー、バーニー・ビガード、ジョニー・ドッズ、ジョニー・センシア、ベイビー・ドッズ)をフィーチャーした。
    • 1928年にはニューヨークに移り、1930年までヴィクターで録音を行う。ニューヨークにおけるレッド・ホット・ペッパーズはババー・マイリー、ポップス・フォスター、ズッティ・シングルトンらを擁した。
    • この時期、ラジオでW.C.ハンディが「ブルースの父」「ジャズの創始者」として紹介されているのを聴き、「ジャズ発祥の地はニューオリンズであり、私が1902年にジャズを創り出した」という書簡を新聞社に送付した。
    • 大恐慌のため1931年でヴィクターとの契約が切れ、不遇の時代を迎える。1934年には短期間ラジオ・ショーに出演するが、次第に演奏活動は縮小。前歯に填め込んだダイアモンドも失った。
    • アラン・ロマックスが見つけたときにはワシントンDCのもぐり酒場で演奏、MC、バーテンダーをしていた。
    • 1938年にはアラン・ロマックスが国会図書館のためのインタビューを行う。当初の予定に反して8時間以上に渡りインタビューと演奏が録音されたが、10年後までリリースされることはなかった。
    • もぐり酒場の喧嘩の際に受けたナイフ傷により体調が悪化。1941年、キャリア再開のためロサンゼルスに向かうが、到着直後に死去。
  • New Orleans Feetwarmers「Sweetie Dear」(1932)
    • ベシェは神童と呼ばれ、6歳にしてニューオリンズで最も尊敬されるクラリネット奏者ジョージ・バケーが指導を申し出たため、ストーリーヴィルのクラブに通い始めた。若い頃より多くのトップ・バンドにフィーチャーされた。
    • マルチ・プレイヤーであり、1941年の録音では1人でクラリネット、ソプラノサックス、テナーサックス、ピアノ、ベース、ドラムを演奏している。
    • 1913年、キング・オリバーからクラレンス・ウィリアムズに紹介され、1914年から1916年の間ウィリアムズと南部諸州でツアーを行う。
    • 1917年にシカゴに移る。1919年にはウィル・マリオン・クック楽団やルイ・ミッチェル楽団でヨーロッパで演奏を行う。この際にソプラノサックスを購入。
    • 1925年から1929年には再度ヨーロッパで演奏活動(ジョセフィン・ベイカーも同じレビューに在籍していた)。パリで他のミュージシャンと喧嘩になり発砲事件に。ベシェは1年をフランスの刑務所で過ごす。
    • フランスには滞在できず、英国からのヴィザが降りないため、釈放後から1931年までベルリンに滞在し、ノーブル・シスル楽団で活動。
    • 1932年、トミー・ラドニア(トランペット)とともにニュー・オリンズ・フィートウォーマーズ名義で録音を残す。その後音楽界を退き、ラドニアとテイラー・ショップを興すが成功せず、再びシスル楽団で活動する。
    • ラドニアは消息不明となったが、1938年に再発見され、幾つかの録音を行った直後の1939年に死去している。
    • 1938年にシドニー・ベシェ&ヒズ・ニュー・オリンズ・フィートウォーマーズを編成、「サマータイム」がヒット。1940年代にはエディ・コンドンとニューヨークで定期的に活動するとともに、バンク・ジョンソンとのバンド結成を計画する。
    • 1950年に再度フランスに渡航、アンティーヴに永住。1959年、62歳の誕生日に肺癌にて死去。
    • ヘルマン・ヘッセの小説「荒野の狼」に登場するサックス奏者パブロのモデルと考えられている。
    • エリントン曰く「私にとってベシェはまさにジャズの縮図だ」。
    • ニューオリンズ生まれ。12歳の大晦日に発砲事件を起こして入れられた少年院でコルネット習得。14歳で釈放されると紙の販売、船荷の運搬、石炭の販売等に従事しつつ、ファンキー・バット・ホール等のクラブに通った。キング・オリバーがアームストロングのフェイヴァリットだった。
    • オリバーは初めてのコルネットを与え演奏を教える等、父親のようにアームストロングに接した(初めての楽器についてはロシア系ユダヤ人の移民家族から借りた金で買ったという説あり)。
    • 1917年にはストーリーヴィルのもぐり酒場で演奏を始めていた。1919年に初めてニューオリンズを離れ、フェイト・マラブル楽団に加入、ミシシッピ河をミネアポリスまで往復するリヴァーボートで演奏した。また、キング・オリバーが1919年にシカゴに移るとキッド・オリー・バンドにおける代役を務めた。
    • 1921年にマラブル楽団を離れ、ニューオリンズでズッティ・シングルトン楽団に加入。アレン・ブラスバンドでのパレードやパパ・セレスティンのタキシード・オーケストラ、シルヴァー・リーフ・バンドでも演奏した。
    • 1922年、オリバーからの誘いを受け、念願叶ってクレオール・ジャズ・バンドに加入、後の妻リリアン・ハーディン(ピアノ)と知り合う。1924年結婚、妻の勧めにより渋々ながらも同年末にクレオール・ジャズ・バンドから独立。
    • 1925年にシカゴに戻り、ホット・ファイヴとして初めての自己名義の録音を行う。ホット・ファイヴ(セヴン)は1928年まで録音を続け、クラシックとなる音源を残した。1926年録音の「ヒービー・ジービーズ」はスキャットの元祖とされる。
    • 1930年にはロサンゼルスに移り、セバスチャン・ニュー・コットン・クラブ・オーケストラを率いた。
    • 1931年6月、キング・オリバークレオール・ジャズ・バンドに参加するため、1922年以来初めてニューオリンズに凱旋。ラジオ・ショーに出演するが白人アナウンサーがアームストロングを紹介することを拒否、黒人聴衆のためのフリー・コンサートもキャンセルされる。同年リリアンと別れる(正式な離婚は1938年)。
    • 1932年、カリフォルニアに戻った後、英国ツアーを行い成功。その後3年間は国内のみならずデンマークスウェーデンノルウェイ、オランダ、英国でのツアーに明け暮れた。
  • Johnny Dodd's Orchestra「Too Tight」(1929)
    • 1912年から1919年の間、ニューオリンズにおいてキッド・オリー楽団で活動。1917年からはフェイト・マラブル楽団でリヴァーボートの演奏も行う。
    • 兄弟のベイビー・ドッズとともに、ルイ・アームストロングのホット・ファイヴ、ホット・セヴンでの録音で重要な役割を担った。
    • 1930年代を通じて演奏、録音を続けるとともに、兄弟でタクシー会社を経営した。1940年死去。
  • New Orleans Owls「That's Plenty」(1927)
    • 1920年代にニューオリンズで録音した数少ないバンドの1つ、ニューオリンズ・オウルズによる1927年の現地出張録音。ルー・ポラック作曲のスタンダード。
  • Henry Allen and His New York Orchestra「Pleasin' Paul」(1929)
    • 1926年、シドニー・デヴィーニュのサザン・シンコペイターズに加入し、リヴァーボートで演奏を行う。
    • 1927年、キング・オリバーのディキシー・シンコペイターズに加入。ニューヨークに行った際に、アレンはクラレンス・ウィリアムズと初録音を行う。
    • アレンはニューオリンズに戻るとファッツ・ピションと活動した後、フェイト・マラブル楽団に加入、1928年までリヴァーボートでの演奏を続ける。
    • 1929年自己名義で幾つかの録音を行い、その後ルイス・ラッセル楽団に加入し、1933年まで数年間活動する。
    • 1934年、ミルズ・ブルー・リズム・バンドに加入。1936年まで活動した後、当時ルイ・アームストロングがフロントを努めていたルイス・ラッセル楽団に再加入。