- Johnny De Droit and His New Orleans Orchestra「The Swing」(1924)
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- 1920年代初期にニューオリンズのファッショナブルなホテルやレストランで自作曲を演奏したバンド・リーダー。
- King Oliver's Creole Jazz Band 「Sobbin' Blues」(1923)
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- 1922年にはニューオリンズからルイ・アームストロングを呼び寄せ、また、初めてのコルネットを与えた師匠であり、アームストロングはオリバーを「パパ・ジョー」と呼び終生敬愛した。
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- 録音曲数が110を超える文字通りの「王様」だったが、1927年、コットン・クラブからハウスバンドの誘いがかかるがギャラで折り合わなかった(結局エリントン楽団がハウスバンドになった)のを境に、歯ぐきの病気で吹けなくなるわ(最終的に全ての歯を失った)、大恐慌で財産を預けていたシカゴ銀行は倒産するわ、凄い勢いで凋落。最後は(賭けの)玉突場の掃除夫として貧困の内に死亡。
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- これは1923年だから初録音の「むせび泣くブルース」。
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- スライド・ホイッスルを吹いているのはルイ・アームストロングだそうです。
- Clarence Williams' Blue Five「Wild Cat Blues」(1923)
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- 1917年のストーリーヴィル閉鎖を受け、1920年にウィリアムズはシカゴに移る。音楽会社を設立したところ非常に儲かったので3社まで拡大。1920年にマミー・スミスの初録音が好評を博すと、ウィリアムズは黒人女性ブルース・シンガーのレコードの製作、販売に着目。1921年にはブルース・シンガーのエヴァ・テイラーと結婚。
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- 1923年にはシカゴの所有会社を処分して拠点をニューヨークに移動。その年の2月にはコロンビアでベッシー・スミスの初録音を行う。ベッシー・スミスの多くの曲で作曲者にクレジットされているが、出版しただけで殆ど関わっていないものもあると考えられている(当時の慣習として一般的)。また、彼は当初スミスの録音ギャラの半分をくすねていた。
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- ウィリアムズはオーケー・レコードの演奏者かつレパートリー・ディレクターとして、多くのタレントを発掘。ルイ・アームストロングやシドニー・ベシェらのキャリアを大きく前進させる録音セッションを行った他、ドン・レッドマン、キング・オリバー、コールマン・ホーキンズらのミュージシャンを採用。
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- 1943年に5万ドルでデッカに膨大な曲のバック・カタログを売却して引退、商売を始めて成功、1956年に交通事故で視力は失うものの、1965年まで生きた。とにかく機を見るに敏なビジネスマン。
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- この曲はシドニー・ベシェの(リリースされたものとしては)生涯初録音(とは言え既にビッグネームだった)にして名演奏、なんだそうです。
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- 典型的なABACDCパターンで、B♭で演奏されるABAの部分からE♭のCへの展開及びブレークが入るDの部分はこの時代の曲に特徴的、なんだそうです。
- George McClennon's Jazz Devils「New Orleans Wiggle」(1924)
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- 初期のレコードはハーレム・トリオ名義で1923年、1924年にリリースされた。
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- 自作曲のみならず、クラレンス・ウィリアムズやファッツ・ウォーラーの曲のカバーも録音した。
- Bennie Moten's Kansas City Orchestra「Kater St. Rag」(1925)
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- 幼少時に母親からピアノを習い、12歳からはバリトン・ホーンを習う。
- Edna Winston「Pail in My Hand」(1926)
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- 無名のヴォードヴィル・ブルース・シンガー。トーマス・モリス楽団との録音。
- Thomas Morris and His Seven Hot Babies「The Mess」(1926)
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- 1920年代、初期ニューヨーク・ジャズ・シーンで活動。
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- ファッツ・ウォーラー、シドニー・ベシェ、チャーリー・ジョンソン、クラレンス・ウィリアムズとの録音や、マーガレット・ジョンソン、サラ・マーティン、エバ・テイラー。マミー・スミス等のブルース・シンガーの伴奏など、150もの録音を残している。
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- 1929年のベッシー・スミスの映画「セントルイス・ブルース」に少しだけ映っている。
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- 1930年代初期には音楽ビジネスを離れ、グランド・セントラル駅で赤帽とした働いた後、当時流行していたアフロ・アメリカンのキリスト根本主義者のカルト「Father Divine's Universal Peace Mission Movement(ディヴァイン神父の宇宙平和の使徒運動?)」のメンバーとなった。
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- 同運動では、全ての人は平等であり、リーダーであるディヴァイン神父がキリストの再来であると信じられており、信者に喫煙、飲酒、猥褻、不敬、卑俗、贈り物の授与、贈与、チップを禁ずる禁欲生活を要求した。
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- モリスはブラザー・ピエールと改名し、ディヴァインの信者となった。
- New Orleans Owls「White Ghost Shivers」(1926)
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- 1912年からニューオリンズ周辺で活動していたインヴィンシブルズ・ストリング・バンドから発展したバンド。
- Andy Preer and The Cotton Club Orchestra「I Found a New Baby」(1927)
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- コットンクラブのハウスバンド。1920年代前半は「ミズーリアンズ」として活動。
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- 1927年、プリアが死去。キング・オリバーがオファーを断ったため、デューク・エリントンがハウスバンドに。
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- バンドは再びミズーリアンズとして、エセル・ウォーターズとツアー。
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- 1929年には、キャブ・キャロウェイと組んでコットン・クラブで演奏。1930年にはキャロウェイのバンドの中核として迎え入れられた。
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- この曲が唯一の録音。
- Louis Dumaine's Jazzola Eight「Pretty Audrey」(1927)
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- デュメインの曲は後にバンク・ジョンソンらによってカバーされた。
- Dixon's Jazz Maniacs「Crazy Quilt」(1927)
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- ヴァンス・ディクソンは1920年代にシカゴで活動したクラリネット、アルトサックス奏者。
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- 自身のトリオで録音したこの曲は非常に有名。
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- ジョニー・パース、ジミー・オブライアント、タイニー・パーハムらと多くの録音を残した。
- Ross De Luxe Syncopaters「Don't You Wanna Know」(1927)
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- 1928年、ニューヨークのローズモント・ボールルームで2週間の活動の後に解散。
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- 後にフレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、チャーリー・パーカーと活動したトランペット奏者クーティー・ウィリアムズが、また、後にビリー・ホリデイ、ライオネル・ハンプトン、コールマン・ホーキンス、ルイ・アームストロングと活動したクラリネット兼サックス奏者エドモンド・ホールが在籍した。
- Reb Spikes Majors and Minors「My Mammy's Blues」(1927)
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- ジェリー・ロール・モートンも一員だったミンストレル・ショー「マッケイブズ・トルバドゥール」とツアーを行った。
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- その後、サンフランシスコで1901年開業の「パーセルズ・ソー・ディファレント・クラブ」で演奏。世界最高のサックス奏者として宣伝された。
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- スパイクス兄弟はいくつかの名曲の作曲(作詞)家としてクレジットされているが、出版しただけで実質的には関与していないと考えられている(クラレンス・ウィリアムズと同様)。
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- この曲はライオネル・ハンプトン(この時はドラム)のキャリア初録音。
- Charles Creath's Jazz-O-Maniacs「Butter Finger Blues」(1927)
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- トランペット奏者チャールズ・クレスが1916年から1940年の間セントルイスで率いた楽団。
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- ミュート奏法を使用。アコーディオンやサックスも演奏できた。
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- ダンスホールの剃刀ファイトを一音で止めた、という逸話があるらしい。
- Sam Morgan's Jazz Band「Everybody's Talking About Sammy」(1927)
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- ニューオリンズ出張録音が残っているのは大変喜ばしいことのようです。
- Lou Weimer's Gold and Black Aces「Merry Widow's Got a Sweetie Now」(1928)
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- パーデュー大学のカレッジ・バンド(金と黒はパーデュー大学のカラー)。
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- 本当はWeimerじゃなくてWeinerなのに、誤記がいつまでも正されない悲しい人。録音は2曲だけ。
- Slim Lamar's Southerners「Goofus」(1928)
- J. Neal Montgomery and His Orchestra「Auburn Ave. Stomp」(1929)
- The Whoopee Makers「Rush Inn Blues」(1929)
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- デューク・エリントン・オーケストラの変名バンドと同名の別物。紛らわしい。
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- テナーサックス奏者ジャック・ペティスが率いたバンドの1つ。
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- キャリア初期にはシカゴでエルマー・ショーベルやポール・メアーズと活動した後、ニューオリンズ・リズム・キングスに加入。
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- 1924年、ベン・バーニー楽団に加入、翌年、短編映画でソロを披露。
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- 1930年以降、表に表れたのは1937年の録音1度だけ。その後の消息は熱心な調査にも関わらず不明。ミステリー。
- Paul Howard's Quality Serenaders「The Ramble」(1929)
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- 西海岸で活動したテナーサックス奏者。
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- ソロイストとしての評価は高くないが、ライオネル・ハンプトンや後にルイ・アームストロングやデューク・エリントンと活動することとなるトロンボーン奏者ローレンス・ブラウンらを擁するアンサンブルは高く評価されている。
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- 主なアレンジメントはサックス奏者であり殆どの録音曲の作曲者であるチャーリー・ローレンス。
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- ニューオリンズの葬式(所謂「セカンド・ライン」の由来)で埋葬後家に戻るときにやる賑やかな音楽を「ランブル」というらしい。