Various Artists 「The Best of Dixieland Jazz(Disc 4)」

  • Jones and Collins Astoria Hot Eight「Duet Stomp」(1929)
  • Jelly Roll Morton's Red Hot Peppers「Cannon Ball Blues」(1926)
    • モートンとチャーリー・ライダー、マーティー・ブルームの作曲。
  • Omer Simeon with Earl Hines「Beau Koo Jack」(1929)
    • 1914年に一家でニューオリンズからシカゴに移ると、同様にシカゴに移っていたロレンツォ・ティオ・ジュニアにクラリネットを学ぶ。兄弟であるアル・シメオンのホット・シックスで活動した後、1923年から1927年の間はチャーリー・エルガークレオール・オーケストラで活動。
    • 1931年から1941年の間はアール・ハインズ・オーケストラで活動。1942年から1950年の間はジミー・ランスフォード・オーケストラで活動。アフリカ・ツアーも行った。晩年は主にウィルバー・ド・パリスと活動した。1959年咽頭癌にて死去。
    • アレックス・ヒルは自らも楽団を率いていた人で、メルローズ兄弟の出版社のアレンジャーをやっていた。
  • Jimmie Noone's Apex Club Orchestra「I Know That You Know」(1928)
    • 「エイペックス・ブルース」の録音メンバーからチューバが抜けた編成。
    • 1926年のブロードウェイ・ミュージカル「オー、プリーズ!」で使われた曲。アン・コールドウェル/ヴィンス・ユーマンス作曲。
  • Louis Dumaine's Jazzola Eight「Franklin Street Blues」(1927)
    • バンク・ジョンソンにカバーされたのはこの曲。
  • Celestin's Original Tuxedo Jazz Orchestra「As You Like It」(1927)
    • 1910年から演奏していたタキシード・ダンスホールが1913年に銃撃戦によりオーナーが死亡したため閉鎖した後、リーダーであるパパ・セレスティンがタキシード・ブラスバンドの名称での活動を継続。1917年にはオーケストラを結成。ルイ・アームストロング、ジョニー・センシア、ズッティ・シングルトンらがそのキャリアの初期に在籍した。
  • New Orleans Rhythm Kings「Panama」(1934)
    • 再結成ニューオリンズ・リズム・キングス。1922年に録音した曲の再演。10歳のときに路面電車の事故で右腕を失ったトランペット奏者ウィンギー・マノンやシドニー・アロディンも参加している。オリジナル・メンバーはブルーニスのみ。
    • ピアノロールの再生録音にしては音が悪いし、そもそもジョプリン自身の演奏によるこの曲のピアノロールが存在していないはず。
    • 演奏者不明のピアノロールの再生録音と推測しますが、果たしてどうなのか。
  • Kid Ory「Ory's Creole Trombone」(1922)
    • 当初バンジョーを演奏していたことがテイルゲイト・スタイルの確立に繋がったと言われている。
    • 1919年、健康上の理由からカリフォルニアに転居し、新たにクレオール・オーケストラを結成。1922年、スパイクス・セヴン・ポッヅ・オブ・ペッパー・オーケストラ名義(サンシャイン・バンド名義でも発売された)で史上初めてのアフロ・アメリカンによるジャズの録音(この曲と「ソサエティ・ブルース」)。
    • この録音を行ったレーベルであるサンシャインは3枚しかレコードをリリースしなかった。残りの2枚はルース・リーとロバータ・ダドリーによるブルースの録音で、両者ともオリー楽団がバックを努めている。
    • サンシャインを経営していたのがジョンとレッドのスパイクス兄弟。彼らのレコード店のみで販売され、5,000枚しかプレスされなかった。
    • 1921年に両親がシカゴ郊外のレイク・フォレスト陸軍士官学校に入れたが、シカゴのクラブやもぐり酒場に入り浸るようになり、放校。フルタイムのミュージシャンとなった。
    • 1923年にはウォルヴァリン・オーケストラに加入し、1924年に初録音。1924年の終わり頃にはジーン・ゴールドケット楽団に加入、録音も行う。1925年、チャーリー・ストレート楽団で活動するとともに、ゴールドケット楽団の友人とともに自身の名義での初録音を行う。
    • 1926年にはジーン・ゴールドケット楽団に再加入し録音を行うと共に、フランキー・トランバウアー楽団としても録音を残した。1927年、トランバウアーとともに短期間エイドリアン・ロリーニ楽団で活動した後、ポール・ホワイトマン楽団に加入。
    • 1929年、アルコール中毒による震え、幻覚に苦しみ、神経衰弱に陥ったため、ダヴェンポートの両親の元に送り返された。ポール・ホワイトマンは神経衰弱後も給料を払い、復帰すればいつでも受け入れると約束したが、バイダーベックはホワイトマン楽団には戻らなかった。
    • 1930年、ニューヨークに戻り、9月にホーギー・カーマイケルとともに最後の録音。1931年、28歳の若さで死去。 公式な死因は大葉性肺炎と脳浮腫だった。
    • ルイ・アームストロングは、バイダーベックのクラシックは触れられるべきではないので「シンギン・ザ・ブルース」は決して演奏しない、と語った。また、多くの者がビックスのように吹こうとするが、だれも彼のようには吹けない、とも語った。
    • 1950年に映画化されたドロシー・ベイカーの小説「ヤングマン・ウィズ・ア・ホーン」の登場人物リック・マーティンはバイダーベックを部分的にモデルにしている。
    • フランク・トランバウアー・アンド・ヒズ・オーケストラ名義での録音。トランバウアーのサックス・ソロが有名。
  • Johnny Dodds「Clarinet Wobble」(1927)
    • ドッズの個人名義。ドッズ、リル・アームストロング、バド・スコットのトリオ。
  • Jelly Roll Morton「That's Like It Ought To Be」(1929)
    • ハリソン・スミス、ベン・ギャリソンの曲「(ゼアズ・ナッシン・ファニー・アバウト・ザット)ザッツ・ライク・イット・オータ・ビー」が元ネタ。
    • ショップかチョップか判然としませんでしたが、SP盤の画像によれば「Cornet Chop Suey」が正しいと思われます。ホット・ファイヴ名義。
  • Jabbo Smith's Rhythm Aces「Jazz Battle」(1929)
    • ブランズウィックのメイヨ・ウィリアムズの求めにより、ジャボ・スミスが結成したバンド。充実した音楽的内容にもかかわらずあまり売れなかった。
    • ジャボ・スミスは1908年のクリスマス・イヴ、ジョージア州ペンブロークの床屋兼教会のオルガン奏者の家庭に生まれた。4歳の時に父親が死去すると、6歳でチャールストンのジェンキンズ孤児院に入れられる(母親も同孤児院の仕事に就く)。ジェンキンズ孤児院は音楽教育に力を入れており、多くのジャズメンを排出した。スミスは8歳でトランペットとトロンボーンを始め、10歳でジェンキンス・バンドでのツアーを始めた。
    • 16歳で孤児院を離れる。母に週100ドル以下の仕事はしないと約束し、それを守った。1927年にデューク・エリントン楽団に加入するチャンスがあったが、週に65ドルのオファーだったため断った。
    • スミスは、チャーリー・ジョンソンのパラダイス・テンやデューク・エリントン(1927年の「ブラック・アンド・タン・ファンタジー」の録音におけるババー・マイリーの代役)等の数多くの一流バンドで仕事を得た。
    • 1928年には、ブロードウェイのショー「キープ・シャッフリン」のピット・オーケストラ(ジェームス・P・ジョンソン楽団)でファッツ・ウォーラーらとともに演奏し、同メンバールイジアナシュガー・ベイブス名義で録音した。このショーの資金提供者であるアーノルド・ロススタイン(1919年のブラックソックス事件フィクサー)が殺害されたため、楽団は1928年にシカゴで解散。数年間シカゴで活動する。1929年リズム・エイシーズを結成し録音。
    • 1930年代には徐々に音楽活動から退いた。1938年には一時期グループを率い録音を行った他、アルカザーというニューアークのクラブで演奏。この時、アルカザーを度々訪れていた17歳のサラ・ヴォーンアポロ・シアターのアマチュア・コンテストに出演するよう勧めた(ヴォーンは優勝し、デビュー)。
    • その後、スミスはミルウォーキーに移り結婚、時折地元で演奏しつつ、レンタカー会社で働いた。その後20年間忘れ去られた存在だった。1960年代後半より復活し、2枚のアルバムを録音した。1979年にはミュージカル「ワン・モー・タイム」にゲスト出演。幾つかのジャズ・フェスティバルへの出演、ヨーロッパ・ツアー、ニューヨークのウェスト・エンド・カフェ、ボトムラインヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏なども行った。最後の公演は1986年のベルリンで行い、ドン・チェリーに強い印象を与えた。1990年コースタル・ジャズ名誉の殿堂入り。1991年死去。
    • シンプソンはこの後1935年に精神病院に収容され、1942年に一度だけ録音を行い、1952年に死去。
  • King Oliver「Snag It」(1926)
    • 1924年にはシカゴに移りキング・オリバーズ・ディキシー・シンコペイターズに加入、1926年まで活動。
    • 1941年からはニューヨークの地下鉄の守衛の仕事に就いたが、ディキシーランドリバイバルを受けて1945年に復帰、バンク・ジョンソンやキッド・オリーらと活動した。1953年、フランスに移住。1973年死去。
    • 10代からニューオリンズで演奏を開始。1917年シカゴに移り、日中仕事をしながら夜の演奏活動を続けた。1920年にフレディ・ケッパードやジミー・ヌーンと活動した後、ニューオリンズに戻りルイス・ラッセル楽団等で演奏。
    • 1935年にはルイス・ラッセル楽団に再加入。当時ルイ・アームストロングがフロントを努めていた同楽団で1938年まで活動すると、またニューオリンズに戻る。1941年には短期間アームストロングと活動した後、レッド・アレン楽団で活動し、自身のバンドも結成した。
    • 第1次世界大戦中はパパ・セレスティン楽団で活動。1919年にニューオリンズからシカゴに移り、クラレンス・ウィリアムズの出版社の支店を設立。1920年代にはバンドでの活動もしたが、オーケーのレイス・レコード部門のマネージャーとしての演奏が主であった。自身のスタジオ・バンドであるジャズ・ウィザーズを率い、多くのシンガーの伴奏を努めた。
    • 「トラブル・イン・マインド」「リヴァーサイド・ブルース」といったスタンダードの作曲者。
  • New Orleans Rhythm Kings「That's a Plenty」(1923)
    • ニューオリンズ・オウルズのバージョンは「ザッツ・プレンティ」で、このバージョンでは「ザッツ・ア・プレンティ」。「ア」入りが正確だと思われます。
  • Original Dixieland Jazz Band「Home Again Blues」(1921)
  • J.C.Higginbotham「It Should Be You」(1929)
    • 1928年、ルイス・ラッセル楽団に加入。1931年まで活動。この時期に録音した内の2曲ではJ.C.ヒギンボーサム&ヒズ・シックス・ヒックス名義でフロントを努めた。
    • 1931年からはベニー・カーター、チック・ウェブ、フレッチャー・ヘンダーソンといったスウィング・バンドで活躍。1937年からはルイス・ラッセル楽団に再加入し、ルイス・ラッセル楽団を引き継いだルイ・アームストロングと活動した。1940年レッド・アレン楽団に加入、1947年まで活動。
    • その後、1950年代中頃に自身のバンドを結成、レッド・アレン楽団に再加入(1963年まで)。1973年死去。
    • ヘンリー・レッド・アレン・アンド・ヒズ・ニューヨーク・オーケストラ名義の録音。正式にルイス・ラッセル楽団に加入する前のアレン名義の録音ですが、メンバーラッセル楽団。
  • McKinney's Cotton Pickers「Milenberg Joys」(1928)
    • 当初はデトロイトのグレイストーン・ボールルームをベースに活動したが、1929年前半にはニューヨークで活動。チョコレート・ダンディーズ名義でも録音している。1931年、アレンジャーも努めたドン・レッドマンがメンバー数人を引き連れて独立。
    • 上記の有名どころではクロード・ジョーンズ(トロンボーン)が参加。マッキニーは創設者だがマネージャーであり、演奏はしていない。
  • Red Nichols「Wabash Blues」(1927)
    • チャールストン・チェイサーズはファイヴ・ペニーズの変名としてしばしば用いられたほか、コロンビアによってオリジナル・メンフィス・ファイヴなどにも用いられた。ヴォーカル録音のためのオールスター・キャストのバンドとしても録音を残した。
    • 第1次世界大戦中はマーチ王ジョン・フィリップ・スーザの海軍楽隊で演奏。戦後はシカゴに戻り、幾つかのダンス・バンドで演奏。1922年にはアート・カッセルとともに「ソビン・ブルース」を作曲。1924年にビックス・バイダーベックと知り合い、ウォルヴァリンズのマネージメント(と時に演奏)を始める。ニューヨークに移り、レッド・ニコルズ、ロジャー・ウルフ・カーン、ポール・ホワイトマンと活動。1920年代終盤には自身のバンドを結成し、録音を残した。
    • 1930年、ルイ・アームストロング、フランク・ドリッグスとマリファナ吸引で逮捕。1930年代はパラマウントのスタジオ・ミュージシャンとして過ごし、1940年代には交響楽団の仕事に戻った。第2次世界大戦中は空軍楽隊を努め、戦後は映画音楽のスタジオ・ミュージシャンとして過ごした。1951年肺癌により死去。
    • この曲はマミー・スミスが1921年に録音した曲。