- Jones and Collins Astoria Hot Eight「Duet Stomp」(1929)
- Jelly Roll Morton's Red Hot Peppers「Cannon Ball Blues」(1926)
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- モートンとチャーリー・ライダー、マーティー・ブルームの作曲。
- Omer Simeon with Earl Hines「Beau Koo Jack」(1929)
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- シメオンは頻繁にジェリー・ロール・モートンと録音を行った。1927年にはキング・オリバーのディキシー・シンコペイターズとツアーした後、再びエルガー楽団に加入する。1928年にはニューヨークで短期間ルイス・ラッセルやジェリー・ロール・モートンと活動を行うが、直ぐにシカゴに戻りアースキン・テイト楽団に加入。
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- ジェリー・ロール・モートンはシメオンを最良のジャズ・クラリネット奏者と評した。
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- 作曲者がシメオンになってますが、アレックス・ヒル/ルイ・アームストロング/ウォルター・メルローズが正しいのでは。前年にアームストロング自身が録音。
- Jimmie Noone's Apex Club Orchestra「I Know That You Know」(1928)
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- 「エイペックス・ブルース」の録音メンバーからチューバが抜けた編成。
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- 1926年のブロードウェイ・ミュージカル「オー、プリーズ!」で使われた曲。アン・コールドウェル/ヴィンス・ユーマンス作曲。
- Louis Dumaine's Jazzola Eight「Franklin Street Blues」(1927)
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- バンク・ジョンソンにカバーされたのはこの曲。
- Celestin's Original Tuxedo Jazz Orchestra「As You Like It」(1927)
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- 1910年から演奏していたタキシード・ダンスホールが1913年に銃撃戦によりオーナーが死亡したため閉鎖した後、リーダーであるパパ・セレスティンがタキシード・ブラスバンドの名称での活動を継続。1917年にはオーケストラを結成。ルイ・アームストロング、ジョニー・センシア、ズッティ・シングルトンらがそのキャリアの初期に在籍した。
- New Orleans Rhythm Kings「Panama」(1934)
- Scott Joplin「Original Rags」(1898)
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- スコット・ジョプリンの最初に売れたラグタイム。1898年出版。
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- 演奏者不明のピアノロールの再生録音と推測しますが、果たしてどうなのか。
- Kid Ory「Ory's Creole Trombone」(1922)
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- 当初バンジョーを演奏していたことがテイルゲイト・スタイルの確立に繋がったと言われている。
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- 1912年から1919年の間率いていたニューオリンズ最高と称されたキング・オリバーとの双頭バンドには、ルイ・アームストロング、ジョニー・ドッズ、シドニー・ベシェ、ジミー・ヌーンらが在籍した。
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- この録音を行ったレーベルであるサンシャインは3枚しかレコードをリリースしなかった。残りの2枚はルース・リーとロバータ・ダドリーによるブルースの録音で、両者ともオリー楽団がバックを努めている。
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- サンシャインを経営していたのがジョンとレッドのスパイクス兄弟。彼らのレコード店のみで販売され、5,000枚しかプレスされなかった。
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- 1925年にシカゴに移り、キング・オリバー、ルイ・アームストロング、ジェリー・ロール・モートンらと活動する。大恐慌期には殆ど演奏せず、兄弟と養鶏を営んでいた。
- Bix Beiderbecke「Trumbology」(1927)
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- 1921年に両親がシカゴ郊外のレイク・フォレスト陸軍士官学校に入れたが、シカゴのクラブやもぐり酒場に入り浸るようになり、放校。フルタイムのミュージシャンとなった。
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- 1923年にはウォルヴァリン・オーケストラに加入し、1924年に初録音。1924年の終わり頃にはジーン・ゴールドケット楽団に加入、録音も行う。1925年、チャーリー・ストレート楽団で活動するとともに、ゴールドケット楽団の友人とともに自身の名義での初録音を行う。
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- 1930年、ニューヨークに戻り、9月にホーギー・カーマイケルとともに最後の録音。1931年、28歳の若さで死去。 公式な死因は大葉性肺炎と脳浮腫だった。
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- ルイ・アームストロングは、バイダーベックのクラシックは触れられるべきではないので「シンギン・ザ・ブルース」は決して演奏しない、と語った。また、多くの者がビックスのように吹こうとするが、だれも彼のようには吹けない、とも語った。
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- フランク・トランバウアー・アンド・ヒズ・オーケストラ名義での録音。トランバウアーのサックス・ソロが有名。
- Johnny Dodds「Clarinet Wobble」(1927)
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- ドッズの個人名義。ドッズ、リル・アームストロング、バド・スコットのトリオ。
- Jelly Roll Morton「That's Like It Ought To Be」(1929)
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- 「タートルズ・ツイスト」と同日、同メンバーの録音。ジェリー・ロール・モートン・トリオ名義。
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- ハリソン・スミス、ベン・ギャリソンの曲「(ゼアズ・ナッシン・ファニー・アバウト・ザット)ザッツ・ライク・イット・オータ・ビー」が元ネタ。
- Louis Armstrong「Cornet Shop Suey」(1926)
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- ショップかチョップか判然としませんでしたが、SP盤の画像によれば「Cornet Chop Suey」が正しいと思われます。ホット・ファイヴ名義。
- Jabbo Smith's Rhythm Aces「Jazz Battle」(1929)
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- ブランズウィックのメイヨ・ウィリアムズの求めにより、ジャボ・スミスが結成したバンド。充実した音楽的内容にもかかわらずあまり売れなかった。
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- 16歳で孤児院を離れる。母に週100ドル以下の仕事はしないと約束し、それを守った。1927年にデューク・エリントン楽団に加入するチャンスがあったが、週に65ドルのオファーだったため断った。
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- スミスは、チャーリー・ジョンソンのパラダイス・テンやデューク・エリントン(1927年の「ブラック・アンド・タン・ファンタジー」の録音におけるババー・マイリーの代役)等の数多くの一流バンドで仕事を得た。
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- 1928年には、ブロードウェイのショー「キープ・シャッフリン」のピット・オーケストラ(ジェームス・P・ジョンソン楽団)でファッツ・ウォーラーらとともに演奏し、同メンバーでルイジアナ・シュガー・ベイブス名義で録音した。このショーの資金提供者であるアーノルド・ロススタイン(1919年のブラックソックス事件のフィクサー)が殺害されたため、楽団は1928年にシカゴで解散。数年間シカゴで活動する。1929年リズム・エイシーズを結成し録音。
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- その後、スミスはミルウォーキーに移り結婚、時折地元で演奏しつつ、レンタカー会社で働いた。その後20年間忘れ去られた存在だった。1960年代後半より復活し、2枚のアルバムを録音した。1979年にはミュージカル「ワン・モー・タイム」にゲスト出演。幾つかのジャズ・フェスティバルへの出演、ヨーロッパ・ツアー、ニューヨークのウェスト・エンド・カフェ、ボトムライン、ヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏なども行った。最後の公演は1986年のベルリンで行い、ドン・チェリーに強い印象を与えた。1990年コースタル・ジャズ名誉の殿堂入り。1991年死去。
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- シンプソンはこの後1935年に精神病院に収容され、1942年に一度だけ録音を行い、1952年に死去。
- King Oliver「Snag It」(1926)
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- 1924年にはシカゴに移りキング・オリバーズ・ディキシー・シンコペイターズに加入、1926年まで活動。
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- 1926年からはカイロ、上海、アレキサンドリアなど様々な場所で活動。1928年に帰国すると1933年までルイス・ラッセル楽団で活動。様々なバンドで活動した後、1937年から1939年の間はルイ・アームストロングがフロントを努めていたラッセル楽団で再度活動。1939年にはジェリー・ロール・モートンとの録音も行った。
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- 1935年にはルイス・ラッセル楽団に再加入。当時ルイ・アームストロングがフロントを努めていた同楽団で1938年まで活動すると、またニューオリンズに戻る。1941年には短期間アームストロングと活動した後、レッド・アレン楽団で活動し、自身のバンドも結成した。
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- 「トラブル・イン・マインド」「リヴァーサイド・ブルース」といったスタンダードの作曲者。
- New Orleans Rhythm Kings「That's a Plenty」(1923)
- Original Dixieland Jazz Band「Home Again Blues」(1921)
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- 1916年に徴兵されたハリー・アクストとアーヴィング・バーリンが知り合い、1921年に2人で書いた曲。
- J.C.Higginbotham「It Should Be You」(1929)
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- 1928年、ルイス・ラッセル楽団に加入。1931年まで活動。この時期に録音した内の2曲ではJ.C.ヒギンボーサム&ヒズ・シックス・ヒックス名義でフロントを努めた。
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- 1931年からはベニー・カーター、チック・ウェブ、フレッチャー・ヘンダーソンといったスウィング・バンドで活躍。1937年からはルイス・ラッセル楽団に再加入し、ルイス・ラッセル楽団を引き継いだルイ・アームストロングと活動した。1940年レッド・アレン楽団に加入、1947年まで活動。
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- その後、1950年代中頃に自身のバンドを結成、レッド・アレン楽団に再加入(1963年まで)。1973年死去。
- McKinney's Cotton Pickers「Milenberg Joys」(1928)
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- ウィリアム・マッキニー(ドラム)が1922年にオハイオ州スプリングフィールドで結成したシンコ・セプテットを、1926年に10人に拡大する形で結成。1927年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団のドン・レッドマンが音楽ディレクターとして加入。1928年まで録音の機会に恵まれなかった。
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- メンバーは流動的だったが、ベニー・カーター、コールマン・ホーキンズ、ロニー・ジョンソン、ジェイムズ・P・ジョンソン、ジョー・スミス、エド・カフィ、クロード・ジョーンズ、ファッツ・ウォーラーらが在籍したこともあった。1934年、大恐慌を受け解散。
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- ジェリー・ロール・モートンの曲。1923年にニューオリンズ・リズム・キングスと録音。1924年にはモートン自身のソロ・ピアノで録音したがリリースされなかった(マスターも行方不明)。
- Red Nichols「Wabash Blues」(1927)
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- チャールストン・チェイサーズはファイヴ・ペニーズの変名としてしばしば用いられたほか、コロンビアによってオリジナル・メンフィス・ファイヴなどにも用いられた。ヴォーカル録音のためのオールスター・キャストのバンドとしても録音を残した。
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- 第1次世界大戦中はマーチ王ジョン・フィリップ・スーザの海軍楽隊で演奏。戦後はシカゴに戻り、幾つかのダンス・バンドで演奏。1922年にはアート・カッセルとともに「ソビン・ブルース」を作曲。1924年にビックス・バイダーベックと知り合い、ウォルヴァリンズのマネージメント(と時に演奏)を始める。ニューヨークに移り、レッド・ニコルズ、ロジャー・ウルフ・カーン、ポール・ホワイトマンと活動。1920年代終盤には自身のバンドを結成し、録音を残した。
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- 1930年、ルイ・アームストロング、フランク・ドリッグスとマリファナ吸引で逮捕。1930年代はパラマウントのスタジオ・ミュージシャンとして過ごし、1940年代には交響楽団の仕事に戻った。第2次世界大戦中は空軍楽隊を努め、戦後は映画音楽のスタジオ・ミュージシャンとして過ごした。1951年肺癌により死去。
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- この曲はマミー・スミスが1921年に録音した曲。