Various Artists 「The Best of Dixieland Jazz(Disc 5)」

  • New Orleans Rhythm Kings「Maple Leaf Rag」(1923)
    • 「ザッツ・ア・プレンティ」の翌日、同メンバーでの録音。
  • New Orleans Rhythm Kings「Weary Blues」(1923)
    • 「ザッツ・ア・プレンティ」と同日、同メンバーでの録音。
    • アーティー・マシューズ作曲のスタンダード。「シェイク・イット・アンド・ブレイク・イット」のタイトルで多く演奏された。
  • Original Dixieland Jazz Band「Crazy Blues」(1921)
    • 「ホーム・アゲイン・ブルース」と同日、同メンバーでの録音。
    • ペリー・ブラッドフォードとアレックス・ベルエドナ(本名エドナ・ベル・アレキサンダー)作曲の、マミー・スミスが1920年に録音した曲。
  • King Oliver「Sugar Foot Stomp」(1926)
  • McKinney's Cotton Pickers「Cherry」(1928)
    • 「ミレンバーグ・ジョイズ」の翌日の録音。
    • パーソネルが100%異なってジーン・ゴールドケット楽団のメンバー。間違いなのかどうなのか良く分かりません。
    • 映画「スティング」のアレ。これも演奏者不明のピアノロールの再生録音だと思われます。
  • Kid Ory「Too Bad」(1926)
    • 「スナグ・イット」「シュガー・フット・ストンプ」録音時のメンバーからバド・スコット(バンジョー)が抜けた編成。
    • ビリー・マイヤーズとエルマー・ショーベル(元ニューオリンズ・リズム・キングス)の曲。
    • フランク・トランバウアー・アンド・ヒズ・オーケストラ名義での録音。
    • フランク・トランバウアー・アンド・ヒズ・オーケストラ名義。
    • パーソネルはトランバウアー、バイダーベック、ビル・ランク(チューバ)、ドン・マレイ(クラリネット、バスサックス)、アーネスト・レッド・イングル(アルトサックス)、イッツィー・リスキン(ピアノ)、エディ・ラング(ギター)、チョウンシー・モアハウス(ドラム)。
  • Johnny Dodds「If You Want To Be My Sugar Papa」(1927)
    • ジミー・バートランズ・ウォッシュボード・ウィザーズ名義。
  • Johnny Dodds「Memphis Shake」(1926)
    • 作曲はメンバーのヘンリー・クリフォード。ジャグ担当。
  • Red Nichols「Avalon」(1928)
    • ファイヴ・ペニーズ名義。パーソネルはニコルズ、ミフ・モール、ダドリー・フォスディック(メロフォニウム)、ファド・リヴィングストン、ピー・ウィー・ラッセル(クラリネット、サックス)、レニー・ヘイトン(ピアノ、チェレステ)、カール・クレス(ギター)、ヴィク・バートン(ドラム)。
    • ホット・ファイヴ名義。
    • ホット・セヴン名義。
    • ロジャー・ウルフ・カーン・アンド・ヒズ・オーケストラ名義。
    • 1920年頃、ペック・ケリーズ・バッド・ボーイズとしてテキサスでプロとして演奏を開始。1922年には自身のバンドを結成しカンザスシティで活動。1927年に初録音。同年ニューヨークに移ると、1928年にはベン・ポラック楽団で活動。
    • 1920年代終盤には、ロジャー・ウルフ・カーン、エディー・コンドン、レッド・ニコルズらと多くの録音を行った。1930年代初頭にはシカゴをベースとし、ウィンギー・マノンらと活動。1933年にポール・ホワイトマン楽団と5年契約を結ぶ。
    • 1939年にビッグバンドを結成し1946年まで活動するが商業的には成功しなかった。1947年から1951年の間は、ルイ・アームストロングのオールスターズで活動。オールスターズ脱退以降は自身のセクステットを率い、ジミー・マクパートランドやアール・ハインズ(1957年のヨーロッパ・ツアー時)と活動した。
    • 1958年から1959年の間は極東ツアーを行い、1961年にはエディー・コンドンらとテレビ・ショーや録音を行った。1964年、肺炎によりニューオリンズにて死去。
    • 「トライ・ア・リトル・テンダネス」で有名なハリー・ウッズ作曲。
    • 「シーズ・ア・グレート・グレート・ガール」と「ノーバディズ・スウィートハート」が同じ曲なのはどういうことだと調べてみたら。
    • 「シーズ・ア・グレート・グレート・ガール」と間違って「ノーバディズ・スウィートハート」が収録されているという驚愕の事実が発覚しました。誰の何時の録音なんだ、これは。
  • Buster Bailey「Sensation」(1927)
    • 多くのメンフィスのミュージシャン同様、バスター・ベイリー(クラリネット)はW.C.ハンディの楽団でキャリアを開始し、1917年から1919年までの間ツアーを行った。
    • 1919年にシカゴでフランツ・シェップのトレーニングを受けると、シカゴのアースキン・テイトのヴェンドーム・オーケストラに加入し、1923年まで活動。その後約1年間はキング・オリバーと活動。
    • 1927年にヘンダーソン楽団を離れ、ノーブル・シスル楽団でヨーロッパをツアー。帰国後はエドガー・ヘイズ楽団、デイヴ・ネルソン楽団で活動するが、1931年にシスル楽団に再加入。1934年には、ヘンダーソン楽団に復帰、ミルズ・ブルー・リズム・バンドで約1年間活動、またもやヘンダーソン楽団で活動。1934年、ジョン・カービー楽団に加入し、1946年まで活動。1946年には短期間自身のバンドを率いた後、1947年、ウィルバー・ド・パリス楽団に加わり1949年まで活動。
    • 1950年代はレッド・アレンらと活動。1961年から1963年の間はワイルド・ビル・デイヴィソン、1963年から1964年にはセインツ・アンド・シナーズで活動。1965年にルイ・アームストロングのオールスターズに加わり、1967年に死去するまで活動。
    • 代わりにW.C.ハンディの音楽出版社のためのデモンストレーション演奏の仕事を得た後、ブラック・スワン(ハリー・ハーバート・ペイスがW.C.ハンディと袂を分かって立ち上げた黒人初のレコード会社)のマネージャーとなり、エセル・ウォーターズのためのバンドを結成した。
    • 1922年には自身のバンドを結成し、クラブ・アラバム(後にローズランド・ボールルームに移転)に出演。自身の他にドン・レッドマンもアレンジャーとして在籍した他、コールマン・ホーキンズ、レッド・アレン、レックス・スチュワート、トミー・ラドニア、ドク・チーサム、ロイ・エルドリッジ、ベニー・カーター、チュー・ベリーも在籍。1924年にはルイ・アームストロングも在籍した。1939年解散。
    • 解散後はベニー・グッドマン楽団にピアニスト兼アレンジャーとして加入。ステージ演奏における人種混合バンドの初めての例。1943年に脱退するが1947年に再加入。1948年から1949年にはエセル・ウォーターズとツアー。1950年に卒中を起こし、演奏不可能に。1952年死去。
    • オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの「センセイション・ラグ」がオリジナル、ということで良いのでしょうか。
  • J.C.Higginbotham「Swing Out」(1929)
    • ヘンリー・レッド・アレン・アンド・ヒズ・ニューヨーク・オーケストラ名義。「イット・シュッド・ビー・ユー」の翌日、同メンバーでの録音。
    • ヒギンボーサムとアレンの共作曲。
  • Jabbo Smith's Rhythm Aces「Little Willie Blues」(1929)
    • 「ジャズ・バトル」録音時のメンバーにヘイズ・アルヴィス(チューバ)が加わった編成。
  • Luis Russell's Hot Six「29th & Dearborn」(1926)
    • 1925年にシカゴに移り、ドク・クックのドリームランド・オーケストラで活動した後、キング・オリバー楽団に加入。1926年には自身の名義(ホット・シックス、ヒービー・ジービー・ストンパーズ)で6曲を録音。
    • 1927年、オリバーとともにニューヨークに移ると、他の数人のメンバーとともにルイス・ラッセル・オーケストラを結成。バーニー・ビガード、オマー・シメオン、ポップス・フォスターらを擁し、初期スウィングの好例となる多くの録音を残した。1929年には「マホガニー・ホール・ストンプ」の録音で初めてルイ・アームストロングのバックアップを行った。
    • 1943年から1948年の間は自身のバンドを率い、サヴォイやアポロで演奏したほか、幾つかの録音も残した。
    • 晩年は音楽から離れ、キャンディショップやおもちゃ屋の経営をした後は運転手として働いていた。1959年に故郷パナマでクラシックのピアノ・リサイタルを開催。1963年ニューヨークにて癌により死去。
    • 1926年、まだオリヴァー楽団在籍時の数少ない録音。リチャード・M・ジョーンズ作曲。1923年にキング・オリバーが「リヴァーサイド・ブルース」として録音した曲と同じ曲、と言う話もあるようです。
  • Clarence Williams' Blue Seven「Would Ja'」(1926)
    • バークリー・スクエアで小夜鳴鳥が歌ってた」で知られるマニング・シャーウィン作曲(ビリー・ホリデイの友人の作家・作詞家のアーサー・ハーツォグ・ジュニア作詞)。