Various Artists 「The Best of Dixieland Jazz(Disc 8)」

  • Sidney Bechet「Polka Dot Rag」(1934)
    • ノーブル・シスル・アンド・ヒズ・インターナショナル・オーケストラ名義。トミー・ラドニアとのテイラー・ショップが上手くいかなくてシドニー・ベシェが復帰した時期。
  • Sidney Bechet「Really The Blues」(1938)
    • トミー・ラドニア・アンド・ヒズ・オーケストラ名義。メズロウの代表曲。
    • 同名義では1938年11月28日に4曲を録音。ラドニアは12月19日にメズ・メズロウの「パナシェ・セッション」に参加した後、1939年に死去。
  • The Rhythmakers「Who's Sorry Now?」(1932)
    • これもビリー・バンクスのリズメイカーズ名義。バンクスは晩年を日本で過ごした(1967年東京にて死去)。
    • ドラムはジーン・クルーパに代わってズッティ・シングルトン。
    • バド・フリーマン・アンド・ヒズ・フェイマス・シカゴアンズ名義。
  • Johnny Dodds「Melancholy」(1938)
    • ジョニー・ドッズ・アンド・ヒズ・シカゴ・ボーイズ名義。ワイルド・マン・ブルースと同日、同メンバーでの録音。
  • Bobby Hackett「At The Jazz Band Ball」(1938)
    • ボビー・ハケット・アンド・ヒズ・オーケストラ名義。
    • ボビー・ハケットは1915年、ロード・アイランド生まれ。幼少時よりギター、ヴァイオリン、コルネットを演奏。
    • 14歳で中華料理店での演奏のために学校を離れ、その後ボストンやシラキュースのホテルのボールルームでギターやヴァイオリンを演奏。
    • 1937年にニューヨークに移り、自身のバンドを率いてニックス等で演奏するとともに、フリーランスのスタジオ・ミュージシャンとしても活動した。1938年にはベニー・グッドマンカーネギー・ホール公演にも客演。
    • その後、NBCやABCで仕事をするとともに自身のバンドを率いた。1956年にはヘンリー・ハドソン・ホテルで1年間演奏するが、再度スタジオ・ミュージシャンに戻る。1950年代、1960年代にはジャッキー・グリーソンのヒット・レコードのディレクターを務めた。
    • 1965年からトニー・ベネットとツアー。1976年に死去するまで自身のバンドで活動、国際的なジャズ・フェスティバルにも客演した。
  • Buster Bailey「More Than That」(1937)
    • クラレンス・ウィリアムズ、ジョン・カービー、ウィリー・ザ・ライオン・スミス、ライオネル・ハンプトンなど色々考えられて、何名義か良く分かりません。
  • J.C.Higginbotham「That's How I Feel Today」(1937)
    • メズ・メズロウ・アンド・ヒズ・オーケストラ名義。
  • Bill Coleman「After You've Gone」(1936)
    • ビル・コールマンのパリ録音。トリオ編成。
  • Jelly Roll Morton「King Porter Stomp」(1939)
    • カムバックしたモートンのニューヨーク録音。
  • Henry "Red" Allen「King Porter Stomp」(1940)
    • ズッティ・シングルトン・アンド・ヒズ・オーケストラ名義。
  • Pee Wee Russell「None Of My Jelly Roll」(1939)
  • Pee Wee Russell「Georgia Grind」(1940)
  • Bud Freeman「I've Found A New Baby」(1939)
    • バド・フリーマンは、ジミー・マクパートランド、ディック・マクパートランド、エディー・コンドン、デイブ・タフ、ジョーサリヴァンらと活動したオースティン・ハイ・ギャングの一人。当初はCメロディ・サックスを演奏していたが、テナーサックスに転向。
    • 1927年、マッケンジー・コンドン・シカゴアンズで録音した後、ベン・ポラックとともにニューヨークに移る。ビックス・バイダーベック、ホーギー・カーマイケル、ジョー・ヴェヌーティらと録音を行うとともに、レッド・ニコルズ、ロジャー・ウルフ・カーン、ゼズ・コンフリーらの楽団で活動した。
    • 1936年からはトミー・ドーシー楽団で活動。1938年にはベニー・グッドマン楽団に加入するが1年で脱退し、自身の楽団スマ・クム・ラウデ・オーケストラを率いた。第2次世界大戦中は入隊し、アリューシャン列島で慰問バンドを率いた。
    • 戦後はエディ・コンドンと活動するとともに、自身のバンドも率いた。1974年に英国に移り、多くの録音や演奏を行った。1980年帰国。1991年死去。
    • フリーマンは2冊のメモワールと1冊の自伝を著している。
    • バド・フリーマン・アンド・ヒズ・スマ・クム・ラウデ・オーケストラ名義。
  • Sidney Bechet「I Thought, I Heard Buddy Bolden Say」(1939)
    • ワークソングを元ネタに、演奏していたホールに因んでバディ・ボールデンが「ファンキー・バット・ブルース」として演奏。他方で「セントルイス・ティックル」としても出版。後年、ミシシッピジョン・ハートも「ファンキー・バット」を録音。
    • このトラディショナルをモートンがアレンジ。という理解で多分良いのだと思います。
    • 1919年出版のスタンダード。レス・ポールとメリー・フォードの演奏が有名。
    • 違和感があったのでアマゾンで確認したところ、やはり楽勝で違う曲(「マイ・カインド・オブ・ラヴ」)が収録されております。歌詞がない収録曲にどれだけ間違いがあるのかと考えると恐ろしくなってきます。
  • Eddie Condon「California Here I Come」(1938)
    • エディー・コンドンはホリス・ピーヴィーズ・ジャズ・バンディッツバンジョーの演奏を開始。1920年代にはオースティン・ハイ・ギャングの1人として活動。1927年にはレッド・マッケンジーとの双頭バンド、マッケンジー・コンドン・シカゴアンズで録音を行う。
    • 幾つかの録音セッションを行った後、ギターに転向。1928年にはニューヨークに移り、レッド・ニコルズのファイヴ・ペニーズやレッド・マッケンジーのマウンド・シティ・ブルー・ブロワーズで活動。1929年にはルイ・アームストロングのサヴォイ・ボールルーム・ファイヴでの録音セッションにも参加。
    • 1938年からはコモドアーで録音セッションを行った。1937年から1944年の間はニックスで夜の演奏を行い、ニキシーランドと称された。
    • 1944年から1945年の間はラジオ放送用の録音をタウンホールで行った。1948年に自伝「ウィ・コールド・イット・ミュージック」を出版。
    • 1945年から1967年の間は自身のクラブ「エディー・コンドンズ」を経営。1950年代にはコロンビアで録音を行った。1954年と1956年のニューポート・フェスティヴァルに参加。1957年には英国ツアーを行った。最後のツアーは1964年のオーストラリアと日本ツアー。1973年死去。
  • Eddie Condon「Diane」(1938)
    • ルー・ポラック作曲のスタンダード。
  • Eddie Condon「Ballin' The Jack」(1940)
  • Eddie Condon「Fidgety Feet」(1940)