Various Artists 「The Best of Dixieland Jazz(Disc 9)」

  • Bobby Hackett「Ja-Da」(1939)
    • ボビー・ハケット・アンド・ヒズ・オーケストラ名義。
  • Sidney Bechet「Perdido Street Blues」(1940)
  • Sidney Bechet「Down In Honky-Tonk Town」(1940)
  • Muggsy Spanier「Dippermouth Blues」(1939)
    • マグシー・スパニア・アンド・ヒズ・ラグタイム・バンド名義。
    • マグジー・スパニアはオースティン・ハイ・ギャングの1人。当初ドラムを学んだが、15歳でコルネットに転向、エルマー・ショーベルのバンドでキャリアを開始。1927年、シカゴ・リズム・キングスで初録音。1928年にもほぼ同メンバーでジャングル・キングス名義で録音。
    • 1929年にはテッド・ルイス楽団に加入。映画「流行の寵児(1929年)」「ヒア・カムズ・ザ・バンド(1935年)」でスパニアを見ることが出来る。その間1934年、1935年には再結成ニューオリンズ・リズム・キングスにも参加。
    • 1936年にベン・ポラック楽団に加入。1938年、アルコールで健康を害して脱退。ニューオリンズのトゥーロ診療所で奇跡的に健康を回復。
    • 同年解散、テッド・ルイス楽団に復帰。1940年はニューヨークでマックス・カミンスキー、ミフ・モール、ブラッド・ゴーワンズらと活動、高名な「ジャム・セッション・アット・コモドア」にも参加。
    • 1940年9月からボブ・クロスビー・ディキシーランド・ビッグバンドに加入。1941年から1943年の間は自身のバンドを率い、デッカで録音。
    • 1944年から1948年の間は主にスモール・グループで活動し、1949年から自身のセクステットで国内ツアー。1957年にサンフランシスコに定住。アール・ハインズとの双頭バンドで活動した。1967年心臓病により死去。
    • 「ディッパーマウス・ブルース」は「シュガー・フット・ストンプ」の別名。
  • Bud Freeman「The Eel」(1939)
  • Lu Watters「Cake Walking Babies From Home」(1942)
    • ルー・ワタース・アンド・ザ・ジェルバ・ブエナ・ジャズ・バンド名義。
    • ルー・ワタースは1940年代のディキシーランドリバイバルに貢献したトランペット奏者。1939年、オークランドで率いていたスウィング・バンドのメンバーでジェルバ・ブエナ・ジャズ・バンドを結成。キング・オリバー・スタイルの復興を目指し、オリバー楽団と同じく2トランペット編成とした。サンフランシスコのドーン・クラブで活動を開始。1942年、ワタースが徴兵され活動休止。戦後再結成し、再びドーン・クラブで活動。
    • 1947年にエルセリートに移り、1950年に解散するまで「ハンボーン・ケリーズ」で活動。1957年に音楽活動から引退。地質学を学ぶが、後にはシェフになった。
    • 1963年にターク・マーフィー楽団の北カリフォルニア反核ラリーで演奏を再開。再度引退する前に1枚だけ録音を残した。1989年死去。
    • オリジナル録音はベッシー・スミスだと思われます。
  • Jimmie Noone「New Orleans Hop Scop Blues」(1940)
    • ジミー・ヌーン・アンド・ヒズ・オーケストラ名義。
    • これもオリジナル録音はベッシー・スミスだと思われます。
  • Edmond Hall「Royal Garden Blues」(1943)
    • エドモンド・ホールズ・ブルー・ノート・ジャズメン名義。
    • ニューオリンズで数々のバンドで活動した後、1927年にアロンゾ・ロスのデラックス・シンコペイターズに加入、初録音、1928年にニューヨークに移る。解散後、1929年から1935年の間はクロード・ホプキンス楽団でバリトンクラリネットの二役を務めた。その後、ラッキー・ミリンダー、ズッティ・シングルトン、ジョーサリヴァン、レッド・アレンと活動。
    • 1944年にエディー・コンドンと活動を開始するとともに、自身のグループでの活動を開始。1950年から1955年の間はコンドンのクラブのハウスバンドで活動。
    • 1955年から1958年の間はルイ・アームストロングのオールスターズでツアー。1959年に訪れたガーナではジャズ・スクールの設立を計画したが実現しなかった。1960年代には再びコンドンと活動。ジョン・ハモンドによる1967年のスピリチュアル・トゥ・スウィングが最後の録音。
    • ブルー・ノート録音。
  • Kid Ory「South」(1944)
    • オリジナルはベニー・モーテン。
  • George Wettling「The Darktown Strutter's Ball」(1940)
    • ジョージ・ウェットリングス・シカゴ・リズム・キングス名義。
    • ジョージ・ウェットリング(ドラム)は1930年代中頃にシカゴでポール・メアーズと録音を行うものの無名の存在のまま1935年にニューヨークに移る。ジャック・ヒルトン楽団で短期間活動した後、アーティー・ショウ楽団(1936年)、バニー・ベリガン楽団(1937年)、レッド・ノーヴォ、ポール・ホワイトマン(1938年〜1940年)、マグシー・スパニア楽団で活動。
    • 1943年から1952年の間はABCのスタッフ・ミュージシャンとして過ごすとともに、エディー・コンドンのクラブやタウンホール録音で活動。
  • Wild Bill Davison「Muskrat Ramble」(1943)
    • ワイルド・ビル・デイヴィソン・アンド・ヒズ・ジャズ・バンド名義。
    • ワイルド・ビル・デイヴィソンは1906年オハイオ州デフィアンス生まれのコルネット奏者。キャリア初期にはギターを演奏した。
    • 1920年代にはオハイオ・ラッキー・セヴン、シアトル・ハーモニー・キングスなどで活動。1931年にフランク・テシェマッハーを擁するバンドを結成するが、1年後に2人で交通事故に遭い、テシェマッハーは死去。
    • その後、ミルウォーキーで活動し、「トランペット・キング」と称される。1940年頃にはニューヨークに移り、ジョージ・ブルーニスと録音を行う。第2次世界大戦中に2年の軍役。
    • 1944年にはキャサリン・ダンハム・ショーのために再結成されたオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドに参加。
    • コンドンと活動するとともに、1960年からは自身のバンドでの世界中をツアー。1974年コペンハーゲンに移住。1989年サンタバーバラにて死去。
  • Bunk Johnson Brass Band「Just A Little While To Stay Here」(1945)
    • バンク・ジョンソンはジャズ初期のパイオニア
    • アダム・オリヴィエからレッスンを受け、オリヴィエの楽団でプロとして演奏を開始。バディ・ボールデンとも演奏したことがあるが、一定期間在籍したことはない。1905年から1915年頃にはニューオリンズで1番のトランペット奏者と見なされていた。
    • 1915年にのマルディ・グラのパレードの仕事に現れなかったため、クルーのメンバーが彼に身体的危害を与えようとしていることを知り、ニューオリンズを離れ、ルイジアナ州ニューイベリアに移る。
    • 1931年、ブラック・イーグルスで演奏中、もう1人のトランペット奏者エヴァン・トーマスが刺し殺されると乱闘になり、前歯を失うとともに楽器が故障。以後借り物のトランペットで何度か演奏したが、1931年には音楽活動から引退。トラック運転手、人夫、子供向け音楽教師などをした。
    • ラッセルとラムジーはミュージシャンやレコード・コレクターから寄付金を集い、ジョンソンに義歯と新しい楽器を購入させた。
  • Kid Ory「Blues For Jimmie」(1944)
  • Muggsy Spanier「Sweet Lorraine」(1940)
    • マグシー・スパニア・アンド・ヒズ・ラグタイマーズ名義。1944年録音が正しいと思われます。
  • Henry "Red" Allen「Indiana」(1941)
    • レッド・アレン・アンド・ヒズ・オーケストラ名義。
    • アレン作曲になってますが、ジェイムス・F・ハンリーの「(バック・ホーム・アゲイン・イン)インディアナ」ではないでしょうか。
  • J.C.Higginbotham「The Sheik Of Araby」(1940)
    • ビートルズもやっていたので有名な曲だと思われます。
  • Edmond Hall「I've Found A New Baby」(1944)
  • George Lewis「Just A Little While」(1943)
    • 1930年代初頭にエヴァン・トーマスのバンドでバンク・ジョンソンと演奏した。大恐慌期には沖仲仕として働きながら機会があれば演奏した。
    • 1942年にジョンソンが再発見されると、ジョンソンのバンドに参加した。ジョンソンのバンドでの活動に加え、1943年から1945年の間は自身のセッションも行った。
    • 1944年、沖仲仕の仕事中、落下したコンテナで胸部を強打。音楽活動復帰は絶望的と考えられていたが、ニューオリンズバーガンディ・ストリートの自宅で療養中から演奏を再開。友人のローレンス・モレロ(バンジョー)、アルサイド・パヴァジョー(ベース)がベッドサイドに各々楽器を持ち寄り、アメリカン・ミュージックのビル・ラッセルがポータブル録音機で録音したのが代表曲「バーガンディ・ストリート・ブルース」の初演。
    • 1946年にニューオリンズに戻り、自身のローカル・バンドで活動していたが、1950年にルイスに関する記事が雑誌に掲載され、1950年代、1960年代にも全米規模で活躍した。1968年死去。
  • Sidney Bechet「Limehouse Blues」(1941)
  • Bud Freeman「Love Is Just Around The Corner」(1940)