坂本龍一 「音楽は自由にする」

音楽は自由にする

  • 坂本龍一の音楽は殆ど聴いたことはありませんが(YMO「×∞増殖」ぐらい)、「EV.Cafe−超進化論」や「Seldom Illegal−時には、違法」をはじめとする対談、聞き書き系の著作は、クールで知的でかなり好きでした。57歳にして初の自伝を見かけては抗いきれず購入。
  • 「表現というのは結局、他者が理解できる形、他社と共有できるような形でないと成立しないものです。だからどうしても、抽象化というか、共同化というか、そういう過程が必要になる。すると個的な体験、痛みや喜びは抜け落ちていかざるを得ない。そこには絶対的な限界があり、どうにもならない欠損感がある。でも、そういう限界と引き換えに、まったく別の国、別の世界の人が一緒に同じように理解できる何かへの通路ができる。言語も、音楽も、文化も、そういうものなんじゃないかと思います」という表現についての解説はしごく当然ではあるのですが、目から鱗が落ちる思いでした。
  • それに気付かされた「ウサちゃんについての音楽」のエピソードも面白いですが、「『ウサちゃんについての音楽を作るほどの、内発的なエモーションやパッションはありません!』とか言って拒絶できるだけの言語的な能力がなかったから、とりあえず作ってしまったというだけのことで」という言い振りがまた面白い。
  • ビートルズを聴いて、ハーモニーが不思議なので、なんだなんだ、と気になって、ピアノで弾いてみる。でもそれはまだ習っていない響きで、何と呼べばいいのかわからないんです。あとでわかったことですが、それは9thの和音だった。これはまさに、ぼくがやがて出会って夢中になった、ドビュッシーの好んだ響きなんですよ。その響きにぼくは、ものすごくどきどきした」とありますが、初期で9thが印象的な曲というとなんでしょうか、見当が付きません。
  • 自分はドビュッシーの生まれ変わりだと思ってサインの練習までしたというエピソードは「EV.Cafe−超進化論」でも既出でしたが、最初に「ものすごい衝撃を受けた」のがピアノ曲ではなく弦楽四重奏曲ブダペスト弦楽四重奏団)というのが面白い。「それは自分の知っているどんな音楽とも違っていました。好きだったバッハやベートーヴェンとは全然違う。ビートルズとももちろん違う。聴いたとたんに、なんだこれは、と興奮して、すっかりドビュッシーにとりつかれてしまった」とのこと。
  • 「EV.Cafe−超進化論」でも現代思想にやたら詳しいところを披露していましたが、ここでも「ぼくも『精神現象学』をかじってはみましたが、内容はまったく記憶に残っていません。カントもそうでしたけれど、そういうずっしりした思想書のようなものを読むのは今でも好きで、いずれ引退したら山にでもこもって読むぞと、今でも捨てずにとってあります」と嗜好を露わにしています。
  • 「友部さんと全国をまわっていたころ」というキャプションの写真が格好良いです。書店でパッと開いたらこのページだったので購入してしまったようなものです。
  • 「基本的に、幸宏や細野さんの場合は、音楽性のベースとしてポップスやロックがある。でも、ぼくにはそれがなかった。だから、2人が『あのバンドの、あの曲のあそこの感じ、あのベースとドラムね』とか言って通じ合っているときに、ぼくだけ全然わからないんです。バンドや曲の名前を覚えて、密かにレコードを買って聴いたりしていました。日々勉強という感じで」、「YMOの音楽の源流の一つは、イギリスやアメリカのポップスです。とくに細野さんと幸宏の2人には、50〜60年代を中心とした膨大な量のポップ・ミュージックが、音楽データベースとして入っている。そういうものが、ロンドンの観客がぼくらの音楽に共鳴する土台になっていたのだと思います。」「もしリズム・セクションの2人の中にポップ・ミュージックがあれほどしっかりと染み込んでいなかったなら、YMOの音楽が世界中の聴衆の耳に届くことはなかっただろうと思います」というのも、個人的には斬新な視点(リズム・セクションが大衆音楽、キーボードがクラシック〜現代音楽)でした。
  • 「いろんな確執を乗り越えて、同じ年の11月に『テクノデリック』というアルバムができた。ぼくも言いたいことをかなり言い、2人もそれぞれに言い、3人の力がいい形で重なりあって、120点ぐらいのアルバムができちゃったんです」、「それまで抑えていた何かが弾けて、ぼくは現代音楽の引き出しも、臆面もなく、どんどん使った。それがYMOのポップな形式にうまく収まったと思います。3人の持っているものが、最良の形で結晶したという、一種の達成感があった」、「そして、もう終わってもいいかな、という感じになったんです。やることはやった、もうシェアできるものは何もない、これ以上続けても意味がない。そういう感じになった」とまで言われると「テクノデリック」が聴いてみたくなります。
  • 1993年のYMO再生(「テクノドン」)の時は人間関係は全然修復されていなかったとは思いませんでした(「ファンはいい迷惑だったと思いますし、自分としても、音楽的にそんなに面白いものは作れなかったという悔しさはあります。どうせ再生するんだったら、音楽的にも自分たちが誇れるものを残したかったんですが、うまく力がかみ合っていませんでした。要するに、機が熟していなかったんですね」)。
  • 「ぼく自信、今後CDを売って音楽家として食べていくということはできないでしょう。常にヒットチャートの上位にいるようなアーティストでないと、コストが回収できない。もう無理だなあ、と感じる毎日です」というのもなかなか赤裸々な告白。
  • 「若いころはいろいろうまくいかなかったけれど、年を取ったからこそ、また2人と一緒に音楽ができるようになった、ということかもしれない。だとしたら、年を取ってよかったと思います。ポール・ニザンじゃないですが、若さなんて、全然いいものじゃないんですよ。声を大にして言いたい」というのは勇気の出るメッセージです。